月の輪通信 日々の想い
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朝から工房の手伝い。 父さんの個展搬入まであと数日。 父さんの表情にも追い詰められた緊張感が混じる。日数を逆算するとどうしても焼き上げまでの時間が足りない。 新しい釉薬を調合しようと計量を始めたら、なんと一番ベースとなる材料のストックが足りない。残った原料の量にあわせて、再び計算しなおして新しいコバルト釉を作る。 小さいほうのポットミル(攪拌機)の回転する音は軽やかな三拍子。 「作りたい!作りたい!時間が足りない!」と嘆く父さんの目は血走っている。 個展前のいつもの風景。 うんうん、いい感じの追い詰められ加減だ。
遅ればせながら、ひいばあちゃんが介護認定を受けることになった。役所から訪問調査員が派遣されてきて、ひいばあちゃんと直接会って普段の生活の様子を聞き取り調査にこられた。 調査員の女性はにこやかな感じのいい女性で、耳の遠いひいばあちゃんのそばに顔を寄せてゆっくりと話すそぶりが高齢者相手のおしゃべりになれているなあという印象。 私は仕事場で洗い物をしながら、ひいばあちゃんとその女性が話す様子を聞くともなく聞いていた。
「胸のほうはまだ痛いですか。」 先日洗面所で転倒したひいばあちゃんは、救急車で運ばれた病院では骨は折れてないと診断されたのに、数日後別の病院で見てもらったらやはり肋骨の骨折が見つかった。 場所が場所だけにこれといって手当てをすることも出来ないそうで、普通の生活をしながら自然に治癒するのを待つしかないのだそうだ。 調査員の人はその怪我の経過をひいばあちゃんに尋ねているようだった。 「体、動かしたり咳をしたら、まだ痛いですねぇ。・・・歩くのは大丈夫ですか?そうですねぇ。痛くても動かないとねぇ・・・。」 ひいばあちゃんの訴えを一つ一つ繰り返しながら、根気よく相槌を打つ。ひいばあちゃんも丁寧に受け答えしてもらって、ご機嫌よくおしゃべりをしておられる様子だ。 「怪我のほうはね、『日にち薬』ですからね、しょうがないですねぇ。・・・『日にち薬』ってね、優しくない言葉ですけどね、ぼちぼちのよくなられますからね、辛抱なさってね・・・。」
「優しくない言葉」 相談員の女性の漏らした些細な言葉が胸に引っかかった。 そうか。「日にち薬」という言葉を「優しくない」と感じる人もあるのか。 確かに痛みや苦痛を今現在抱えている人に対して、「そのうち治るから・・・」と辛抱を強いてそれ以上の訴えを封じてしまうかもしれないその言葉は、もしかしたら本当にその人の立場に身を置いた親身の言葉とはいえないかもしれない。 普段、何気なく慰めの言葉のつもりで使っている「日にち薬」という言葉にそんな風に神経を使うのは、さすがに日々高齢者の福祉を職業としている人の感覚なのだろうなぁと感心する思いで聴いた。 ・・・・のだけれど、やっぱりなんか違う。 「優しくない言葉」に引っかかりを感じたのは、相談員の言葉に対する細やかな心配りに感心したからではないような気がする。 この微妙な違和感は何なんだろう。
「環境に優しい洗剤」とか「地球に優しい企業」とか言う言葉がよく聞かれる。「優しい」という言葉が、「〜について配慮している」「〜に気配りをしている」という意味で多用されるようになったのは最近のことなのだろうか。もうすっかり耳慣れて、新鮮さは全くなくなってしまったけれど、私はあの言葉が嫌い。 もともと「優しい」かどうかは、その行為者が自分の行為に対して評価することではなくて、あくまでもその行為を受けた相手が感じること。だから行為者自身が自分の行為に対して「優しい」という言葉を使うときには、必ず「優しくしてあげる」という恩着せがましい自己アピールのにおいが混じる。 「私はこれだけ思いやりのある人間です」「当社はこれだけ環境問題に積極的に取り組む会社です。」と真正面から言い切る厚かましさがどうしても胸に引っかかってストンと落ちることがないのだ。
同じことを「優しくない言葉」に適用するとするならば、私は今日相談員の女性の言葉に「私はクライアントとの会話の中で使う言葉遣いに対して細心の注意を払っていますよ。」というかすかな自己アピールを感じてしまったのかもしれない。 それは多分、目の前で話しているひいばあちゃん自身に対してではなく、そばで聞いている介護者である家族に対する「高齢者に優しい相談員」としてのイメージのアピールなのだろう。 そのかすかな不快感が私をそこに立ち止まらせたのではないかと思ったりする。
耳も遠く、周りの会話の流れがのみ込めないひいばあちゃんの受け答えは時にとんちんかんで要領を得ない。近頃では時間の観念にも少し乱れが出てきて、自分の寝間で過ごされる時間も長くなった。手足も衰え、以前のように仕事場へ降りてこられることも少なくなった。 ひいばあちゃんの仕事台には、ひいばあちゃんの仕事用の前掛けが畳んだまんまで埃をかぶっている。 傍目にはひいばあちゃんは「介護してあげる」「面倒を見てあげる」「優しくしてあげる」に十分な高齢者なのだろうと思う。 けれども私自身はまだ、この偉大なる明治の女であるひいばあちゃんに対して「してあげる」という言葉を吐く気持ちになれない。 幼い頃から窯元の仕事に入り、早世した先代さんの未亡人として窯の火を守り、息子たち孫たちの下で淡々と職人仕事をこなし、一つも自分の名を刻んだ作品を残すことなく生涯を終えるだろうこの人は、いつまでたっても親しみを込めて見上げる人なのだろうと私は思う。
今日明日、オニイの公立高校入試。 明日の面接試験。 「尊敬する人物は?」と問われたら、オニイは「うちの曾祖母です」と答えるのだという。「ひいばあちゃん」ではなく「曾祖母」と言う言葉を使ったほうがいいよねぇと首をかしげている。 言い慣れない言葉を使うのがなんとなく億劫なのだろう。 オニイもまた、この人の偉大さをよく理解してくれているのだろうと嬉しく思う。
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