月の輪通信 日々の想い
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2005年11月09日(水) 歌姫

ここ数日、TVのワイドショーでは白血病で急逝した女性の追悼の番組が続く。
アイドルから実力派のミュージカルスターへ。努力の人であったというエピソードと共に、遺影の若く美しい笑顔が何度も繰り返し映し出される。私はこの人の歌う歌をちゃんと改まって聴いた事はないけれど、葬送の日のレポートのバックに流れる「アメイジンググレイス」は透き通った張りのある美しい声で、まさに天使の歌声。随分訓練を積み重ねてこられた方なのだろうなぁと思い量る。
そしてここまで鍛え上げた歌声が、肉体の死によって永遠に封じ込められ、2度と聴く事ができなくなると言う当たり前の事実のはかなさが、なんともやり切れない現実として心に迫る。

この秋、父さんが長い間師事してきた南画家の直原玉青先生が101歳の長寿を全うされた。晩年まで精力的に絵筆を取られた巨星の逝去だった。
ただただ筆が動くのを楽しむ子どものように、年老いてもなお純粋に描くことを楽しんでおられたと言う仙人のような画業の偉大さが、父さんの語るなんでもないエピソードの中からでさえ、ひしひしと伝わってくる、そういう方だった。
私には水墨の絵の良し悪しはちっとも分からないのだけれど、小柄で飄々とした老画家の手から生まれた作品の筆の運びは、それと分からぬほど活き活きとした力に溢れ、勢いに満ちている。高齢の画家の肉体の中に秘められた静かなエネルギーの豊かさに圧倒されるような思いで拝見していた。
その方が亡くなられて、101年間の間に培われた絵の技術や豊富な知識や感情や記憶や、そして溢れるような創作のエネルギーが、丸ごと全部、命絶えた画家の肉体の中に封じ込められ、埋葬されてしまう。
かけがえのないものを失ってしまう、そんな現実の酷さに茫然とする。

仕事場で、97歳になるひいばあちゃんの仕事振りを眺める。
最近では、仕事場に入られる時間もめっきり減って、同じ土塊を何日も何日も触っておられる事が増えたが、それでもしわくちゃに大きくゆがんだその手指には、熟練の職人の地道な手つきが頑固に染み付いている。五感が鈍ってその技術があやふやになっても、人が呼吸の仕方を忘れる事がないように、土をこねロクロをまわす長年の作業の手順はしっかりとその肉体に刻みこまれて褪せることがない。
そういうひいばあちゃんの手に残る技術や、もはや改めて語られる事も少なくなった先代さんの時代の思い出の記憶、作品に対する美意識、感情・・・。そういったものは全て、ひいばあちゃんと言う小さな枯れた肉体の中にあって、いつの日かそこに封印されたまま永遠に開かれる事のない場所へ行ってしまわれるのだという事実。
そのことを心から「惜しい」と思う。
人の死を『惜しむ』と言う事は、その人に肉体にこめられた感情やら記憶やら技術やら愛情やら、そういうもの全てが永遠に封印されてしまう事のもったいなさに通じている。

それでも歌姫には、天使のような歌声のCDやテープが残り、人の記憶に歌が残る。
老画家の死後には、膨大な数の力溢れる遺作の数々が残る。
生涯裏方の職人に徹したひいばあちゃんには、自分の名前を記した作品は何一つ残らないかもしれないけれど、毎日無言で土に向かい淡々と立ち働く姿の記憶は私や子ども達の頭の中にしっかりと刻まれて消えることはないだろう。
それでは、なんでもない市井の人の特別な事もない生涯の終わりには一体何が残るのだろう。
42歳の今の私。
一体何ほどのものが培われているのだろう。


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