月の輪通信 日々の想い
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夏休み最終日。 タラタラと夏休みの宿題の取りこぼしを片付ける子ども達にハッパをかけるのに倦んで、父さんの仕事場をのぞく。 父さんは目前に迫った梅田での窯展の作品を制作中。 教室の大きな机に、陶額用に拵えた生地を傍らに置き、その型紙にする白いボール紙になにやら一心に線を引いている。 中央にそびえる美しい台形と水面に逆さに映ったなだらかなその稜線。 一目で富士と判る緩やかな曲線を父さんは何度も何度も繰り返して描く。 「ああ、いよいよ取り掛かるのだな。」と、しばし見入る。
この夏、父さんは富士山に登った。 これまでにも、父さんは作品の題材として富士を選び、遠景としての富士は何度も取材に出かけて写真も撮ってきていたのだけれど、やはり一度は自分の足でその頂上を目指したいと、かねてから念願の初登頂だった。 二泊三日の富士登山バスツアーに申し込み、登山用具を揃え、体力増強のために近くの山に毎朝登って登頂に備えた。 修学旅行に出かける小学生のように、意気揚々と出かけていった父さんは、「ああ、くたびれた。さすがにきつかったわ。」と重いリュックを引きずるようにして帰ってきた。 登山シーズンの富士山は登山客も多く、山小屋はすし詰め状態。軽い高山病や突風にも見舞われたものの念願のご来迎も見ることができ、充実した登山体験だったらしい。
父さんがさっそく現像して見せてくれた旅行中の写真には、肝心の富士山の姿がない。当たり前の事だけれど、富士山に登っている最中には富士山の姿は見えないのだ。あえて言うなら、登山服姿の人物の足元に写る黒い大地こそが富士山そのもの。 「山に登っている人には、山はみえない。」 なんだかとても意味深な比喩のようだけれど、確かにまだかすかに興奮の残る父さんの語る土産話の中からは、古来さまざまな絵画に描かれた神々しい富士の雄姿はうかがわれない。 ごつごつした岩や荒地、人を拒む希薄な大気。 それがあの雲を抱いて優雅に裾野を広げる富士の本当の姿なのだという事を思い知らされる。
登山に当たって、実家の父に借りた登山用具。 分厚い登山靴や完全防水の登山ウェアを返却すべく荷造りをする。 旅の同伴者として、ともに富士山の土を踏んで履きなれた靴やウェアを愛しげに箱に収める。 準備段階から始まって一月あまり、この夏の最大の「初めての富士登山」プロジェクトの終了を惜しむように、ぐずぐずと何度も荷造りをやり直す。 「ほんとは、まだ、富士登山が終わって欲しくないと思っているんじゃない?」 父さんの珍しい優柔不断振りを笑う。 下山直後には、「もう、登りたくない」と思ったという厳しい行軍も、数日たてばすぐに「また、登りたい!」という憧憬に代わるのだろう。 それが多分、登ったものにしか分からない山の魅力でもあるのだろう。
「借りていた装備を送り返すよ。ありがとう」と実家に電話したのは数日前。 それから、何となく送り損ねていた荷物を「明日送るから」と再び連絡。 「でもねぇ、来月もう一度登山の機会があるので、登山靴だけもう少し貸してほしいなぁって、言ってるんだけど。」 あんまり父さんが返却する装備をいとおしそうに眺めているものだから、おねだりの意味を込めて父に頼む。 父は、父さんの気持ちを察して、 「わかった、それじゃぁ、登山靴はそっちで履きつぶせ。」 と、愛用の登山靴を父さんに払い下げてくれた。 電話口の後ろで聞いていた父さんの顔が子どものように緩む。 一ヶ月間の「プロジェクト」ですっかり気の合う相棒となった登山靴を発送準備していた段ボール箱から出してくる。 あらら、ほんとにうれしそう。
新たに父さんが陶板に刻む富士山の雄姿。 初めて登頂の経験を境に、荒れた岩肌の力強さや頬を打つ冷たい突風の厳しさはどんなふうにその作品に生かされていくのだろうか。
「山に登っている人には、山は見えない。」 ともいうけれど、 「山に登った人にしか、山は見えない。」 のかもしれない。
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