月の輪通信 日々の想い
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久しぶりにとうさんと二人で買い物にでる。 帰省を前に、冷蔵庫の掃除を兼ねて在庫一掃処分をしたので、野菜室が空っぽ。力持ちの父さんがいるのをよいことに、大盛りキュウリや丸ごとキャベツなどをまとめ買い。 重くてごめんね。
八百屋の店先にはいろいろな夏野菜が並んでいる。 いつも定番の茄子やトマトと共に、ラップでくるっと巻かれた大ぶりの一束。 芋茎(ずいき)だ。 とうさんはミョウガやふき、破竹やうどなどちょっとレトロなマイナー野菜が好物。「昔はこういうものの煮物がしょっちゅう食卓にのぼったなぁ」と懐かしそうにいう。 京都生まれの義母の料理は「京のおばんざい」が基本スタイル。とうさんにとってのおふくろの味はこういう昔ながらの野菜の煮物の味なのだろう。 春の筍、夏のミョウガ、冬のキョウイモなど、とうさんの希望に沿うべくわが家の食卓にもそういう旬の味覚をと努めてはいるつもりだが、実は私、「ずいき」という物を食べた事がない。 いや、もっと正確に言うなら、どこかで出されたお料理でそれを「ずいき」と認識せずに口にしたことがあるかもしれないので、私は「ずいき」という野菜を自分で調理してたべたことがないのだ。実家の母の料理のレパートリーにも、「ずいき」という食材は入らなかったように思う。 「芋茎」という漢字を当てるだけあって、見るからにごつそうな赤い植物の茎。コレといって香りもない。 お値段を見ると、ごっそり一括りが68円。なに?このお値段・・・。 好奇心と冒険心で、とにかく一束お買い上げ。
「で、お義母さんはどんなふうに料理してくれたの?」 帰宅して父さんに聞く。 「どんなって・・・普通の煮物だったように思うけど。薄く皮をむいて、椎茸だかお揚げだか、そういうのと一緒に煮てあったんじゃない?」 と、とうさんもあまり覚えてないらしい。 とりあえず、蕗のように手で薄く皮をむいて水にさらす。ごつごつした感じの外見とは裏腹に、若い山蕗のようにしなやかで柔らかい。 「前にお義母さんに聞いたときも『普通に煮るだけ』って言われたのよね。でも、どんな味なんだか食べた事がないから見当もつかない・・・」と愚痴っていたら、とうさんがそそくさとネットで検索してくれた。
「へぇ。生の芋茎だけじゃなくて、乾燥芋茎なんてのもあるらしいね。」 といいながら、あちこちレシピを探してくれたが、なかなかこれといった情報に行き当たらない。どうやら、芋茎は煮物よりは湯がいて酢の物にするほうが一般的らしい。 「えーっ、確か煮物だったと思うけどな。酢の物だったのかなぁ。」 とだんだん自分の記憶に自信がなくなってきたらしい。 それにしても、あんなに懐かしがっていた味が、酢の物だったか煮物だったかすら覚えてないって、どういうこと? それが「おふくろの味」ですかぁ? 「ちょっと待って、訊いて来るよ」 とお義母さんの所にもそれとなく訊きに言ってくれたが、やっぱりお義母さんの答えは「普通に煮るだけ」 はぁ、そうですか。「薄味で」とか「甘めの味で」とか、もうちょっとヒントをくれませんか。 そういえば、お義母さんの得意料理といいながら、私はお義母さん自身が芋茎を料理しているのも見たことがない。
ままよっと、だし汁に甘めのしょうゆ味を薄めに仕立てて、下ゆでして一口に切った芋茎と薄揚げの刻んだのをざざっと煮る。 繊維質だけの塊りのような灰汁の強い野菜が、すぐに半透明の柔らかな煮物に変わる。蕗の煮物にも煮ているがそれほどくせの強い味でもなく、かすかにシャリシャリした食感が心地よい。 そうか、これがずいきだったのか。 「こんな味?」 お味見用に熱々の一片を父さんの口に。 「うんうん、こんな感じ、こんな感じ。この味だよ。」 ついでに小皿に取り分けて、お義母さんにもご意見を聞いてみてもらう。 大体の合格点はもらえたらしい。
自分でも食べた事がない初めての食材を調理するのは、面白い。 たまには調理法を調べながら、試行錯誤で料理するのも楽しいものだ。 それともう一つ、思ったこと。 昔いつも食べていたものの味の記憶というものは、案外いい加減ですぐに忘れてしまっているものだということ。 長い年月を経て、再びその味を口にすれば、「そうそう、この味、この味。昔食べたのはこんな感じの味だったよ。」と記憶を新たにすることは出来るけれど、実際に頭の中だけで記憶している「おふくろの味」とか「懐かしい味覚」とか言うものは、案外いいかげんでよく覚えていないものなのかも知れない。 今も毎日、当たり前に何度も食卓にのぼり続けている味。 それが結局の所、「懐かしい味」なのだろう。
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