月の輪通信 日々の想い
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キャンプから一時帰宅して、小学校の和太鼓の練習に行くゲン。 小学校の御神楽の踊りの練習に、OBとして先輩風を吹かせに行くアユコ。 初めてのキャンプの楽しい寝不足分を一気に爆睡するアプコ。 新しく紹介していただいたデッサンの先生に初対面のご挨拶に行くオニイと父さん。 相変わらず今日も、みな思い思いに散っていったり、「暑い、暑い」ともどってきたり、なんとなくあわただしい。
そんなバタバタの合間を縫って、短時間、父さんの仕事場に入る。 焼きあがった作品の「目あと」取りやシリコン塗り、白絵の釉薬掛けや透明の釉薬の下塗りなど、こまごました用事を二つ三つ片付ける。 これまで、ひいばあちゃんが仕事の合間にちょこちょこ片付けてくれていた簡単な雑用のうちのいくつかを、最近私も少しづつ習い覚えるようになった。 今日の作業は、数物の食籠の透明釉がけ。 いつもひいばあちゃん手際よく釉薬掛けをしている作業場に、なんとなく居心地悪く腰を下ろして、大きな刷毛で釉薬を塗る。 「こうやって、手のひらで少しづつ回しながら、塗りムラや荒い刷毛目が見えないように、まんべんなく・・・」と父さんが、鮮やかな手つきでお手本を見せてくれるのだけれど、なかなかそううまくはいかない。 器の中に手のひら全体をすっぽりと入れ、そのまま左手だけで器を滑らせるように回転させながら、まんべんなく塗る。 刷毛を操る右手よりも、手の中でリズミカルに器を回転させながら支える左手の動きの方が難しくて、いつも一旦、刷毛を置き、あいた右手を添えて器を回す私の作業はやたらとモタモタして、みっともない。
「ねぇねぇ、父さん、器を回すとき、器の中で父さんの手は一体どうなってるの?」と聞いてみる。いつも、お手本を見せてくれる父さんの手。 ただ見ているだけでは器の中の左手が、どんな風に動いているのかがよくわからない。 「どうなってるのって言われても・・・」 といいつつ、改めてもう一度お手本。 よく見てみると、べったりと手のひらを器の底につけて支える私と違って、父さんは指を立て、5本の指と親指の付け根のところで器全体を支えている事が判明。なるほど、指先をたてて使ったほうが、手際よくスムーズに回転させる事ができそうだ。 「ああ、なるほどね。」 理屈が分かると、すぐに私にもできそうな気がして、さっそく器を手に取る。 フンフン、プロのコツって、言われてみれば結構単純なものなんだ。 ・・・と素人はすぐに調子に乗る。
・・・で、ものの数分で思い知ったこと。 指先だけで器を支えるためには、私のお子様仕様のずんぐり短い指では、いまいち安定感がないということ。 そして重い食籠を片手で支えて、しかもくるくると回転させるためには、ぐわっと大きな手とともに、その重さに耐える強靭な指の力が必要なのだ。 残念ながら今の私には、そのどちらをも持ち合わせていない。 私の職人修行もなかなか前途多難だなぁとため息をつく。 いつも、さほど疲れた様子も見せず、子どもが戯れるような軽い手つきでなれた作業を次々にこなすひいばあちゃんの節くれだった手を思う。 決して大柄ではないひいばあちゃんの手指は、思いがけなく大きくぱっと開く。あの指なら、きっと重たい器も左手だけで軽々と支える事が出来るのだろう。 仕事の年輪が、そのまま、作業に適した職人の手を作る。 「年季」という古めかしい言葉の重みを感じる。 にわかパート職人の私には、なかなかたどり着けない道のりでもある。
ところで、過酷な農作業や連日の水仕事の苦労も経験しない、マメもささくれもひび割れも知らない甘やかされた専業主婦の手。 ふわふわと頼りない、指輪もマニキュアも似合わない、ずんぐりと短い指の私の手は、いったい何に適した手なのだろう。 ざくざくと米を研ぎ、洗濯物をたたみ、時には子どもたちの頭をわしゃわしゃと撫で回す、そういうことの得意な手であればいいと思ったりする。
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