月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
従業員のNさんが急病で入院して、十日あまり。 いつもはNさんが一手に引き受けてくれていた荷造り仕事に追われる一日。 梱包用の包装紙や宛て紙を裁断したり、桐箱用の織紐を切りそろえたり。 義母と一緒に荷造り場にフルで入っていた頃にはイヤと言うほどやりなれた作業ではあるが、Nさんが荷造りの仕事を取り仕切ってくれるようになってからここの仕事は少々ご無沙汰気味。 仕事場の道具の配置やら、荷物の発送の手順やら、梱包のやり方が微妙にNさん方式に変わっていて、どうしても「ヨソの職場」で作業をしているような違和感が抜けない。
作品梱包用の黄色い布地を裁断する。 大きな作業台の上に布地の束を広げ、作品の大きさに合わせてピンキング鋏でジャキジャキと布を切り分ける。折りたたんだ線の通りに鋏を当て、滑らせるように軽快に切り進んでいきたい所だが、どうも調子が悪い。ピンキング鋏の刃先三分の一程度のところで必ず引っかかって、くっきりしたジグザグの裁断面がガチャガチャと乱れる。 しばらくこの仕事から遠ざかっていたので、手勝手が鈍ったかとも思ったが、どうもピンキング鋏そのものが切れにくくなっているらしい。 新しい作品を送り出すたびに、同じ布地だけをジャキジャキ切るためのピンキング鋏。その使用頻度は結構高い。見た目は汚れも壊れもしていないのだけれど、そろそろ研ぎが必要な時期なのだろう。 以前この作業をしたときにはそれほど「切れが悪い」と感じた記憶もないので、それだけ私がこの作業から遠ざかっていて、Nさんがたくさんたくさんこの鋏でお仕事をしてくれていたと言う事だろう。 気になって、Nさんが前もって切りそろえて準備しておいてくれた布の裁断面を確認してみたら、私がやったようなガチャガチャに乱れた裁断面は見つからなくて、きれいなジグザグの線が続いている。Nさんは日々の作業の中でこの鋏のくせをちゃんと頭に入れて、それなりの使い方で布地を切り進めていたのだろう。 ピンキング鋏の切れ味で、自分の荷造り作業のブランクの長さを感じる。 やはりここはNさん主導の仕事場になっているのだなぁと思う。
義母の台所でごくたまに料理をする事がある。 最近では、義父母やひいばあちゃんと3人で食卓をかこむことが増え、食事の量自体が減った事もあり、義母自身の体調の不良などもあって、義母の台所仕事は少し減ってきている。 代わりに義父が買い物ついでに出来合いのお惣菜を一つ二つ見繕ってきたり、義兄がレトルトや冷凍食品の簡単な調理をしていったり、私が自分の台所で作った夕飯メニューの一品をおすそ分けしたりして、義父母宅の食卓を満たす。そんな事が多くなった。 元来義母はこまめにお料理をする人だ。 昔風のお惣菜、ことに白和えやなますなどちょっとした小鉢のお料理が上手で、新婚の頃、義母が作る少し甘めの胡瓜もみやたっぷりの黒ゴマを擂って青菜を和えるおひたしの味を真似ようと何度も研究したものだった。 何事にも大雑把、見た目より実質第一の私とは違って、義母は「ゴマは脂分が染み出てくるまでしっかりと擂る」「胡瓜の輪切りはつながることなくスパッと美しく刻む」「盛り付けは一人分ずつ小奇麗に、必ず天盛も添えて」とかっちりと生真面目な料理の基本を身につけた人だ。 あの頃、義母の包丁はいつもこまめに研ぎが入っていて、柔らかいトマトでも青々とした浅葱の束も怖いくらいの切れ味ですっぱりとよく切れたものだ。そのころ、包丁研ぎの役目は義父と決まっていて、義母に頼まれて義父がせっせと研いでいたものだろう。 「お義母さんちの包丁はよく切れる。」 あの頃の私にはそういう思いがしっかり頭に染み付いていて、義母の包丁を拝借するときには軽い緊張感を毎度毎度感じたものだった。
最近、義母の台所でお料理をする機会があって、その台所の変化に戸惑った事がある。 ガスコンロの着火が悪くなっていたり、サラダ油や薄口醤油など頻繁に使っている調味料の買い置きが切れたままになっていたり・・・。 主婦が台所から少し遠ざかったり、主婦以外の人が台所仕事の一部を分担したり、そういうことが増えてくると台所と言うのはたちまちにその主婦のカラーを失っていくものなのだなぁと思う。 何よりショックだったのは、あれほどいつもギンギンとよく切れた義母の包丁が情けないほど切れなくなっていたことである。研ぎ手である義父も高齢になり、義母の台所周りの用事にまで手を出さなくなってきたせいもあるだろう。母自身もすこしづつ自らの台所道具に常に張り詰めた切れ味と使い勝手を求めるだけの気概を失いつつあるのかもしれない。 米びつの米の消費量が日に日に増えていく台所、大皿盛の惣菜があっという間に空っぽでご馳走さまとなる食卓こそが、勢いのある上り調子の家族の証ともいう。 子ども達が巣立ち、年齢を重ねて老夫婦の食もだんだんに細くなり、扱う食材の量も減っていく義母の台所は、少しづつ緩やかな坂を下っている所なのだろう。主婦が毎日手にする包丁の切れ味に、家族の勢いが如実に映しだされる、そんな気がして胸が痛む。
ところで我が家の包丁は近頃とてもよく切れる。 長い間、我が家の包丁研ぎは義父母の例に倣って、父さんの仕事だった。 何ヶ月かに一度、私が頼むと父さんが大きな砥石を持ち出して家中の包丁を研いでくれる。男の人は何故だか刃物を扱うのが好きなようだ。何度も何度も試し切りをしながら、研ぎをかける。全部の包丁を研ぎあげると、下手をすると半日仕事になった。 最近では父さんの仕事も多忙になって、「そのうちね」と包丁研ぎの依頼がなかなか引き受けてもらえなくなって、とうとう私は簡単に包丁が研げるという簡易包丁研ぎを購入した。砥石の間に開けられた溝に、手持ちの包丁をはさんで何度か往復させるだけで包丁が研げるという便利グッズ。使った後の包丁を、何日かに一度、こまめにこの装置にかけるだけで、そこそこ満足のいく切れ味が維持できるようになった。 「トマトはね、とりあえず、よく切れる包丁で切ることよ」 完熟のトマトをすっきり輪切りにしながら、アユコにいう。子ども達が使うには、切れ味の鈍った包丁よりは怖いぐらいにすっぱり切れる研ぎたての包丁の方が仕上がりもよく、怪我も少ないようだ。 気持ちよくすっぱりと切れる包丁の切れ味をひとたび知ると、鈍った刃物に感じるもどかしさは耐え難い。 刃物の切れ味を保つ心遣いは、どこかその仕事に対する思いや勢いに通ずるものがある。そんな気がして、今日、また包丁を研いだ。
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