月の輪通信 日々の想い
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2005年05月03日(火) 無名の人

ひいばあちゃん。
昨晩景気付けの輸血をしてもらい、念願かなって外泊許可が出た。肺に溜まっていた水もきれいにとれ、ほとんど以前通りの元気なひいばあちゃんに戻られた。
97歳。驚異的な回復力。

「世間を騒がせたかった」という理由で線路に置石をする男がいた。
「自分の存在を世間に知らしめたい」という理由で、子どもを殺める男がいた。
たとえそれが忌まわしい犯罪であっても、自分自身の「個」を不特定多数の人々に知らしめたいという欲求は、昔からこんなに蔓延していたものなんだろうか。
よくある漫才のネタに「○○さんはエライもんやなぁ、新聞に載ったそうやなぁ。」「ああ、詐欺で捕まってな」というのがあるけれど、内容がどうであれ、TVや新聞に自分の顔写真が上げられ人の口に上るということが、変わりばえのしない凡人の退屈な人生を華々しく変えてくれるような幻想がそこにはあるのだろうか。

「誰かに認められたい」
「多くの人に自分自身の存在や考えを知ってもらいたい」
webを通じて、普通の人が自分の作品や趣味の成果を広く世間に対して発信する事が容易になった。
掲示板やブログ等で、社会情勢や事件事故などに関して私見を述べたり、議論を戦わせたりする場も拡大した。
犇めき合う人の流れの中で、「私はここにいる!」と拳を振り上げて存在を主張するための画期的なアイテムがここにある。

「自分探し」という言葉はもはや手垢にまみれた死語となりつつある。
フリーターと呼ばれる若者達の多くは「自分の本当にやりたい事が見つかるまで・・・」と、自らのモラトリアムを正当化するのだそうだ。
個人の労働の成果が目に見える形で認めてもらえる仕事、自分の名前を何らかの形で残せる仕事、自分の思いや才能を表現できるクリエイティブな仕事。そんな格好のいい、華のある職業は、実際にはほんの一握りの選ばれた人だけのために存在している。
だから、闇雲に「自分らしさ」を求めるだけの若者たちには、一生続けられる魅力的な職業がいつまでも見つからない。

実際には、世界は普通の人の目立たない普通の日常の積み重ねの上に成り立っているのだ。
どこかのだれかが作った作物をどこかの誰かが作った食器で食べ、出たゴミはどこかの誰かが収集していく。
「自分らしい」とか「クリエイティブ」とは無縁の、日々のルーティンとしての仕事の成果が、普通の人の普通の生活の大部分を支えている。

ひいばあちゃんが病院で語ってくれた「仕事は楽しい」という言葉が、まだ頭を巡っている。
少女の頃から窯元の職人としての仕事を続けてきて、その手から数百数千の作品を生み出しておきながら、一つとしてその作品に自分の名を刻むことなく淡々と日々の仕事を「楽しい」といえるその偉大さ。
いきがいや他人からの評価を気にするでもなく、ただ土をひねり、自分の作ったものが、作家の手を経て作家の作品として生まれ変わって羽ばたいていくのを、単純に「面白い」と言い切ることのできる職人気質を美しいと思う。
そういう無名の人の淡々とした日々の営みを、本当に大事なものとして評価できることが現代にはもっと必要なのではないのだろうか。

誰かに褒められるわけでもない。
格段に自分らしさを主張するわけでもない。
毎日毎日が格別楽しくて仕方がないというわけでもない。
けれども改めて振り返ってみれば、そこには自分の歩んできた曲がりくねった長い道のりがある。
そういうささやかな豊かさをじっくりと見つめる事の出来る目を、私は持ちたいと思う。


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