月の輪通信 日々の想い
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2005年04月17日(日) もたれあい

夫がいつも家で仕事をしていて、夫婦が始終一緒にいると、お互いのその日の気分や体調が微妙に影響しあって、二人同時にけだるい空気に落ち込んだり、突然急にハイテンションになったりする事がある。
ここ数日がまさにその状態だった。
仕事上の小さなトラブルや家族の心配事、片付かない懸案事項や果たせない目標。
それぞれに抱えている小さな痛い小石の存在を何となくお互いに意識しながら、「大丈夫、なんとかなるよ。」ともたれあう。
それは決して問題解決の力になったり、不安解消を消し去る即効薬になったりするわけではないけれど、とりあえずそこにその人がいてくれるということが大きな支えとなってくれる。
ありがたいと思う。
けれどもその安心が家族の前進の歩みを遅くしているのではないかと不安になる事がある。

TVの画面で激しく怒り罵声を繰り返す人を見る。
荒々しい木彫りの面の様な鬼の形相で人を罵倒する。
あれほど激しい憎しみの感情を何年もの間、持続し続けるエネルギーというのは一体何なんだろう。
その怒りはもう、感情の爆発とか相手への憎悪とかそういう激しい動機はなくて、日常化した日々の営みの一部としての定着してしまうものなのだろうか。
「近所迷惑な話だな。」とか、「あんな暴挙を何年も止める事が出来ないなんて、行政も警察も非力だな。」とか、ありていのコメントを述べながら、どこかで自分の激しい感情を恥も外聞もなく、あたり構わず投げつける事の出来る彼女を「うらやましい」と感じる私がいる。
それはもちろん、落として割ってしまったコップの小さな小さな砂粒大のガラス片のように、本当にひそかに床材の目地や部屋の片隅にきらりと残っているだけのほんの一瞬の想いだけれど、時にはそれがピッと小さな痛みになって、手探りをする指を傷つけたりする。

子ども達と生活していて、何よりもありがたいと思うのは、子ども達にはまだ真っ白で何もかかれていない未来がそれぞれに一人分づつ与えられているという事だ。
私自身の人生はもうそろそろ折り返し地点。
これから未知の坂を駆け上ったり、高い所から息を詰めて飛び降りたり、そういう冒険にめぐり合うことはなくなっていくだろう。
けれども子ども達の前にはまだまだ地図にかかれていないたくさんの道がある。私自身が果たさなかった夢や獲得しなかった宝に、今度は彼らが挑戦して手を伸ばすのだ。
今の私に出来ない事も、もしかしたらこの子等が何年か後に手に入れることが出来るかもしれない。
そういうふうに思うことで、今の自分の在り様をどこかで肯定的に受け入れる事が出来る。それが私にとっての「子育て」の意味だ。

「子どもの将来のために」と夫婦の時間やお金や生活の全てを費やし、離れて暮らす外国の夫婦の話をきいた。
「それで、あんた達夫婦の『現在』はどうなるの。」
と、父さんと二人、TVにツッコミを入れる。
「子どもより夫婦が最初」「30年後の大富豪より現在の穏やかな幸せ」と急に熱弁を振るい始めて、気がついたらここ数日の憂鬱が霧消していった。
ずるずると蟻地獄のように落ち込むのにも、力任せに這い上がるのにも、歩調をあわせて傍らに寄り添う相棒がいる。
そのことの心地よいぬるさに、もう少し甘えていてもいいだろうか。


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