月の輪通信 日々の想い
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先日、長野行きの荷物の荷造りをしていたときのこと。 従業員のNさんがぶつぶつぶつと独り言を言いながら、作品を大きなダンボール箱に詰めている。 「この子とこの子をあっちへいってもらって、この子をここへ入れたら、う〜ん、ちょっと窮屈すぎるかな。」 別に小さな子どもを定員いっぱい軽自動車に乗せようとしているわけではない。梱包材でくるんだ水指や華入等の作品を運搬用のダンボールにきっちり隙間なく詰め合わせているだけだ。 箱の中に無駄な空間が多すぎても200点近い作品を効率よく運ぶことが出来ないし、ぎゅうぎゅう詰めすぎても破損などの事故の原因ともなる。運搬に使うのは義兄の運転する大型のワゴン車で、積み込むスペースにも限りがある。だから、たくさんの作品を具合よく組み合わせて詰めるには、ちょっとしたコツと熟練が必要になる。 いつもこの仕事を担当してくださるNさんは、この詰め合わせの作業が得意である。いろいろ不規則な形態の作品をうまく組み合わせて、手際よく箱詰めしていく。 「このごろ、作品の大きさを目測で組み合わせる見当がうまくなった」と自分の技の熟練を笑っておられる。 「もっとも、こういうテクニック、ここ以外の職場に入っても何の役にも立たないんだろうけれど・・・」 自嘲気味に言われるけれど、本来職人仕事のテクニックというのはそういう特殊性に基づくものなので、他で応用が利かなくてもここで大いに役に立てばそれはそれで自ら誇っていいことなのだといつも思う。
「よその人が聞いたら、何のこと話しているのか、さっぱり分からないんでしょうね。」 Nさんが、自分で言って自分で可笑しがっているのは、作品の一つ一つを「この子」と呼んで、擬人法で話してしまうご自分の癖。 「べたべたの大阪人だねぇ。」 と私も笑う。 大阪の人(特におばちゃん)は、ちょっとしたものによく「さん」とか「ちゃん」をつける。 アメ(飴)チャン、オカイ(粥)サン、オイナリ(稲荷寿司)サン・・・ また、人間以外の動物や無機物に敬語を使ったりもする。 「小さいとき、『こんな所で猫さんが寝てはるわぁ。』なんて言うたら、九州出身の母に、『猫に敬語を使うなんて可笑しい』と笑われましたけど、関西では別に普通の会話ですよね。」 とNさんが笑う。 ホントにね、変な習慣ではあるけれど、確かに関西人にはいたって普通の会話だなぁ。
大阪のおばちゃんは、外出先で必ずといっていいほどアメチャンを配る。 大阪のおばちゃんが三人よれば、必ず誰かが「アメチャン、あげよか。」とバッグの中からもそもそと、のど飴だかドロップだかを出してきて皆に配る。その時出てくるのは確かに「アメチャン」であって、間違っても体裁のいい「キャンディ」とか「スウィーツ」とかいうしゃれた名前のものではない。 子どもが街頭で泣きぐずったり、ご機嫌を損ねてぷっとほっぺたを膨らましたり・・・。そんなときにもどこからか見知らぬおばちゃんがやってきて「アメチャン食べるか?」と助け舟を出す。それで子どもが泣き止むかどうかは別として、むずかる子どもに苛立って周囲を気遣う母親には、おばちゃんの心遣いにホッと心が和む事もある。 そういう困ったときのコミュニケーションツールである飴玉に親しみを込めて「ちゃん」付けする関西気質は、動物や無機物にまで無意識に敬語を使ってしまう可笑しさともどこかで通じている気がする。 それは時には押し付けがましく暑苦しいサービスでもあるけれど、ちょっとくたびれムードになったり、場の雰囲気がしらけたりしたとき、ちょっとした甘いものを皆に配ってコミュニケーションを図る知恵は、なんにでも「さん」や「ちゃん」をつけ、擬人化してしまうおばちゃんのおおらかさともどこか通ずる所があって私は好きだ。
作り手が製作した作品を梱包する。 窯から生まれた美しい作品をたくさんのお客様の前に披露する大事な架け橋ともなる梱包作業ではあるが、実際には重い作品を持ち上げたり、低い作業台の上で腰をかがめて番号付けをしたりという結構きつい肉体労働だ。 高価な割れ物を取り扱う緊張感の上に、限られた時間内に仕上げなければならない縛りもある。さらには、作品のリストアップが遅れたり、梱包完了後に変更が生じたりと小さな愚痴が溜まりがちな作業でもある。 けれどもそんな中で、 「ま、この子はここにでも収まっててもらいましょか」 とNさんの可笑し味溢れる擬人法は確かに最後まで失われることなくぽろぽろと零れ落ちる。 自分で梱包した作品を「この子」と呼ぶNさんの心持ちには、「よいものを作ろう」という作家の想いや幼子を見守る母の心情にもどこかよく似て、心地よいプロ意識が感じられてありがたい。 そんなことを思った。
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