月の輪通信 日々の想い
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2005年02月12日(土) ずっと先を歩む人

先日来、風邪をこじらせていたひいばあちゃんが、ようやく食事などに起きてこられるようになって来た。少しずつ普通の食事を食べられるようになって、まずは一安心。
若い者なら突発的な高熱からの快復期には、本来の体力が戻ってくる昂揚感とか気持ちの良い食欲とか、妙に明るい爽快感があるのだけれど、高齢のひいばあちゃんにはそういう湧き上がるような回復力はない。
ほんの数日の病床から、ゆっくりとじわじわと元の生活を取り戻していく。
百歳に近い年齢を重ねるという事はそういうことだ。

発熱以来、ひいばあちゃんの言動が少しおかしかったりする。
時間の感覚がおかしかったり、昔の話を今の話と取り紛れていたり・・・。
よく、老人が病気や怪我で入院したり環境が変わったりすると、一時的にボケが始まったり急に体が衰えたりするというが、多分そんなものなのだろう。
今日、義父と義兄が熱の後遺症を心配して、ひいばあちゃんを大きな病院での検査に連れ出したが、特別治療を要するものではないらしい。
前頭葉のどこやらに衰えている部分が見られるものの、ひいばあちゃんの高齢を考えればそれも当然のこと。
人は年齢を重ねるに連れ、体や脳の機能を少しずつ少しずつ削り落として眠らせていくのだ。手足の力が衰え、眼や耳の機能が衰え、記憶や思考の能力が衰えていく。
ひいばあちゃんの脳の一部が、肉体よりさきに少しずつ眠りについていくのは当たり前の道筋なのだ。
ひいばあちゃんの体の穏やかな衰えは、悲しい事だが人間の静かな最後の生の営みとして、少しずつ受け入れていかなければならないものなのだろう。

ひいばあちゃんは私がこの家にお嫁に来たときから既に充分おばあちゃんだったので、一緒に住んでいる義父や義母たちと比べても格別に年齢による急激な衰えを感じる事も少なかった。
いつも気の向いた時間に仕事場に入り、自分の仕事をこつこつとこなし、くたびれたら居間で好きなお相撲の番組を見て、時にはうつらうつらと居眠っておられる。その穏やかな生活ぶりは、十年前も、もしかしたら十年先も変わらないのではないかというような錯覚に陥る事もある。
さすがにいつも一緒に生活している義父たちやともに仕事をする父さんたちに、聴力が衰えたり仕事の手わざが衰えたりという確実な老いの進行を日々実感することもあるようだ。
我が家の子ども達が日に日に大きく強く賢くなり少しずつ大人になっていくのと同じように、年老いた人たちもまた体の中の余分な灯りを一つずつ吹き消しながら坂を下っていかれるのだろう。
うろたえる事もなく、あらがう事もなく、淡々といつもの生活を続けながら、静かに老いていかれるひいばあちゃんの今日をまぶしく感じる。

私がこの人から今のうちに学んでおかなければならないもの、教えて置いていただかなければならないもの、そして私からこの人へ伝えておかなければいけないものがまだまだたくさんあるのだ。
まだまだたったか走れる力があるのに、なかなかひいばあちゃんの緩やかな歩みに心を沿わせて歩くことが出来ない。
もどかしさに心が騒ぐ。<


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