月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
朝から雨。 赤い傘をさして、アプコがピョンピョンと水溜りを飛び越えていく。 まだ、片手で自分の傘を支える事は出来なくて、両方の手で優勝旗を掲げ持つように傘をさす。 足元の水溜りに気が散ると傘をさす手の方がお留守になって、いつの間にかフェルトの帽子が霧のような雨に濡れる。 「アプコ―、濡れてるよ。」 今日は珍しく、ゲンがついつい遅れがちになるアプコを促す。 この春、班長さんのアユコが卒業したら、今度は5年生のゲンが班長さんになって新入生のアプコの手を引いてこの坂道を登校していくことになる。 いつもは些細な事でアプコを怒らせたり、本気で口げんかをしたりするゲンだけれど、彼なりに幼い妹の危なっかしい歩みを気遣う兄らしい所もあるのだなぁと気付く。
「昨日ね、ここの水路に落ち葉がいっぱい溜まってね、うちの前の道路に大雨の時みたいにざーざー、水が流れて大変だったんだよ。」 アプコとゲンに昨日の昼間の大騒ぎの話をする。 うちの前を流れる小さな水路は、山から下の田畑に水を引き込む、大切な用水路。いつも綺麗な水がさわさわと途切れることなく流れているが、この季節になると山の落ち葉や風で折れた木々の枝が詰まって時々、流れが止まる。 昨日は、うちより少し上手のTさんのおうちの前で木の葉の堰が出来て、そこから道路にあふれ出た水の流れが我が家の前の谷側の排水溝に向かって滝の様に流れ出していたのだ。 「水利組合の人たちに来てもらわなくっちゃね。」 と文句を言いながら、近所の方たちと一緒に水路の落ち葉や木の枝を掬い上げ、なんとか流れを元にもどしたものの、一緒に流れ出た土砂や木の葉で道路は汚れたままだった。 Tさんは一人暮らしのお年寄り。 昨年秋から施設に入られて、ずっとお留守だ。いつもふらふらと近所を歩き回り、よそお庭をのぞいているだのどこかの飼い犬に石を投げただの、いろいろ問題があっての施設入所だった。 日がな一日、話し相手も無くぶらぶら時間つぶしをしていたTさんが、時には慰みに水路に留まった木の葉のよどみを突付いたり、流れのそばの木の枝を拾って傍らに寄せておいたりすることもあったのだろう。 もしかしたら、そんな老人のたわいない手慰みが、山の水路の穏やかな弛みない流れを支えている事もあったのかもしれないなぁと思ったりもする。 「水がいっぱい流れてきて、トッポちゃん大丈夫だった?」 アプコが思い出したように我が家の愛車トッポの心配をする。 「水がざーざーといっぱい流れてきて大変だったよ。」という私の言葉をきいて、アプコの頭の中に浮かんだのはもしかしたら、TVで最近よく目にする津波や洪水の映像だったのかもしれない。 小さな水路からあふれ出た水の流れと大災害の濁流を重ねてしまうのは、幼いアプコの豊かな想像力のなせる業だなぁと思う。
「おかあさん、怖い!」 バス停のすぐそばの通りに出て、急にアプコが立ち止まった。 雨が小降りになって傘を閉じると、鏡のように静かになった水溜りの表面に木々の梢や電線の影がくっきりと映る。 さっきまでピョンピョンと飛び越して遊んでいた水溜りに写る空に気が付いて、急に怖くなったのだという。 「だって、落ちそうなんだもん!」 水面にゆらゆらゆれるまやかしの空に、ぴょーんと飛び込んだら一体どこへ落ちていくのかな。 なんでもない水溜りが急に怖くなった自分が可笑しくて、アプコはケラケラ笑い出すけれど、そのくせその手はいつもよりぎゅっと強く私の手を握っていたりする。 小さいその手のぬくもりが、いつもよりひときわ愛しくて、なんだかとても嬉しかった。
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