月の輪通信 日々の想い
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2005年02月02日(水) 寝言

夜中一人でPCに向かっていると、傍らで眠っている父さんが寝言を言う。
昨日に続いて。二日連続だ。
昨晩はやけにはっきりした声で、「おかあさん、おかあさん」と私を呼んだ。母親を呼んでいるのではない。確かに私のことを呼んでいるはっきりした口調だった。寝言に応えてはいけないと聞くので、黙って聞き流してはいたけれど、あんまりはっきりと大きな声で呼ぶので、ビックリした。
今夜はなんだかお経でも読むような、長い長い呟きが続いた。
意味のある言葉は聞き取れないが、何かとってもイライラと怒っているらしい。途中で起こそうかとも思ったけれど、そのうち大きな寝返りを一つして、呟きは急におしまいになった。
後から父さんにきいてみると、一日目はどんな夢を見ていたのか全く思い出さない。二日目は確かに、教室の仕事をしていて思わぬトラブルが発生して困っている夢を見ていたのだという。
夢の中でまでお仕事をしているなんて、本当に仕事熱心なことと呆れ半分で父さんと笑う。
仕事のこと、家族のこと、作品のこと。
毎日毎日、タイマー片手にあちこち奔走する父さんは51歳。 「働き盛りの中高年」という奴だなぁ。いろいろしんどい事や悩み事を抱えて頑張っている父さんの丸まった背中がやけにいとおしく感じたりする。

そういえば昔、父の寝言を聞いた事がある。
大学生の頃、父の単身赴任先の東京のマンションに遊びに行った夜のこと。ワンルームの部屋で隣に寝ていた父が、明け方突然「うぉーっ!うぉーっ!」となんどもなんども吠えたのだ。それもとても父の声とは思えない獣のような甲高い声で。
横にいた私が怖くなって父を揺り起こすまで、父の遠吠えは続いた。
後できくと、猿がいっぱいやって来るので、それを威嚇して追い払うために大きな声を出している夢を見ていたのだという。
どうやら父がその夢を見るのはそのときが初めてではなくて、母に訊くと「うん、それ、何度か聞いたことあるよ。そのときも猿が来たって言ってたわ。」という。
厳格でいつも自信満々に人生を歩んでいるふうに見えていた父の隠れた一面を垣間見たようで、ショックを受けたのを思い出す。
思えばあの頃、父はちょうど今の夫と同じ年頃ではなかったか。
家族を守り、忙しく仕事に奔走し、単身赴任先での不自由な生活にもささやかな楽しみを見つけ、健康を保つためにジョギングを欠かさなかった。勢力的な壮年期を過ごしているように見えた父にも、ひたひたと迫ってくる猿の群れのような、不安やイライラや逼迫感があったのだろうか。
「夜中に突然、お父さんが『うぉーっ!うおーっ!』って吠えるんだもん。ホント、怖かったよ」と若い私は父の寝言をいつまでも笑い話のように弟達に話したけれど、母はいつも「お父さんにもいろいろ想うことがあるのよ」とそのことはあまり話題にしたがらなかった。
働き盛りの坂道をスピードも緩めずに駆け上っていこうとする夫の姿を、なかば頼もしく、なかば心配しながら、母は見つめていたのだろう。
わが夫の寝言をすぐかたわらで聞くこの年になって、初めてあの日の母の心持の一端に触れた気がする。

近頃父さんは独り言も多い。
二人でたわいもない話をしている最中に、突然独り言モードになって何か考え込んでいたりする。仕事の段取り、明日の予定、作品のアイディア。父さんの頭の中には、いつもいつも、たくさんの懸案事項がぐるぐると巡っている。
「そこからは独り言?アタシは返事しなくてもいいんよね?」
と断って、父さんを独り言の世界へ解放する。「ああ、悪い悪い。」と言いながら、父さんの意識は自らの内へ向かう。さっきまで下らない談笑をしていた私の存在が、ぐっとかすんで父さんの視界の外に遠くなっているのがよくわかる。
いつもいつもそばにいて、空気のようになじんだ存在になっている父さんの中に、私の知らない「男」がいる。
父さんの寝言に黙って耳を澄ます私には、そのことが少しまぶしくもあり、少し怖かったりもする。わが身の半身のようでありながら、たくさんの謎を抱く夫の寝顔を、時々じっと眺めてみる。


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