月の輪通信 日々の想い
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久しぶりに七宝の教室へ出かける。 お昼前に京阪の駅を出て、地下鉄一駅分を歩く。ランチタイムのオフィス街にはあちこちに小さなワゴンやピクニックテーブルで安価なお弁当を売る出店が出ていて、OLさんやサラリーマンのおじさんたちが忙しくお手軽なランチの包みを買っていく。 都会のOL経験のない田舎の専業主婦も、月に一、二度、先生のお宅へ伺うたび、物珍しさでオフィスランチのお相伴をする。 から揚げやハンバーグなどのお弁当定番メニューのほかに、煮物や和え物など家庭のお惣菜っぽいおかずも目に付く。ふりかけや味噌汁などのおまけがつく店もあれば、暖かい缶のお茶をサービスしてくれる店もあったりする。 今日はいつも立ち寄るなじみの角のワゴンのおばさんの店が、顔色の悪い青年のワゴンに変わっていて、立ち寄ってみるとお店の名前も違うようだ。ランチタイムの数時間が勝負のお弁当屋さんたちも、これだけ店が多いと競争も激しいのだろう。 「ご飯は、かやくごはんか、玄米ご飯にも出来ますが・・・」 私の前に値段の安いほうのお弁当を選んだサラリーマンのおじさんは、迷わず「玄米!」とだけ答えて、小銭を払って去っていった。健康が気になるお年頃なんだろうなぁ。 冷たい風に背中を丸めて店番をする青年は、物憂げな動作で顔色が悪い。 ねぇねぇ、若いんだから、もうちょっと元気な声だしな。君こそ、玄米ご飯、食べた方が良いよ。
先生のお宅にはいつも4,5人の生徒が、思い思いの時間にやってくる。 いつも朝から昼過ぎまで精勤に通ってくるのがYさん。昼前にたどり着くのが私。午後から、ぱらぱらやってくる方が2,3人。 Yさんは、70代のおばあさん。 以前は足の悪いご主人の手を引いて、バスと電車を乗り継いで通ってきておられたが、最近ではご主人の老化が進み、歩行もどんどん困難になってきたので、地域のデイサービスにご主人を預けてこられるようになった。 「おとうちゃんの迎えがあるから、3時にはここを出にゃいかんのですわ。」 と、終始あたふたしながら怒涛のように作品を仕上げていかれる。 ちょうど幼稚園の迎えの時間を気にする私と急ぎ方が一緒なので、笑ってしまう。
Yさんは10歳違いのご主人と二人暮し。 昔は結構厳格な気難しい旦那さんだったのだという。 「いまじゃ、まだらボケって言うんですかねぇ。時々思いがけん変なことを言い出しおるんですよ。今朝なんかね、起き抜けに『じんりょく・・・』ですよ。何に尽力しとるんですかねぇ。何べん聞いても『じんりょく』って呟いて、『それ、なんね?』と聞いても応えよらんのです。そのくせ、『今の総理大臣の名前はなんじゃったっけね』なんて聞くと、『小泉・・・』って応えよるんです。判ってるんだか判ってないんだか・・・。」 Yさんは夫の衰え振りを愚痴るときにもケラケラとよく笑う。 そしてお稽古の数時間の間、何かしらひっきりなしにお喋りをなさる。 ご近所の放蕩息子の話、デイサービスで出会った老人の愚痴話、訪問販売に来て3時間も話し込んでいった若者の話・・・。 なんだか追い立てられるように次から次から新しい話題が飛び出す。 私も含め、他の生徒さん達は仕事の手を動かしながら、Yさんの機関銃のように繰り出す話題に耳を傾け、一緒に笑う。 「Yさんはね、おうちじゃ、お話し相手はだんな様だけですからね、ここへ来たときくらいたくさんおしゃべりがしたいのでしょう。」 Yさんのいないところで、先生は穏やかに笑って言われる。 長年患ったお姑さんを看取られ、十年ほど前にご主人を亡くされたご高齢の先生は、老い衰えていく夫を老老介護でお世話するYさんの姿をどんな風に感じておられるのだろう。 「みんなそうやって年取っていくんですから、手がかかるのもしょうがないですよ。あんなボケたおとうちゃんでもいなくなりゃ、アタシは一人ですから・・・。」とYさんは言う。 老いというのはさびしい。 わが身の老いも辛いけれど、長年連れ添った伴侶が少しづつ老い衰え、子どもに戻って行くのを黙ってお世話していくのも辛かろう。 それでも、互いの老いをからりと笑い話にして、たくましく今日を生きている老人達の静かな底力に心打たれる。
「尽力」 この言葉を、ボケとも達観ともつかぬ目覚めの一言に呟く老人の若き日の生き様に想いをめぐらすと、今の私の生活と老いの日の私を思って、しゃんと背筋を伸ばさねばならぬ気がする。
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