月の輪通信 日々の想い
目次過去未来


2005年01月26日(水) 人は生き返るか

ここ一週間あわただしく過ぎていった。
突然の厄介な頼まれ事のお断りに苦慮したり、数年ぶりに夜の飲み会に参加したり、京都の展示会会場へ家族で出かけたり、アプコの園の参観に行ったり、小学校の陶芸教室の後半戦が始まったり・・・。
日記のネタも満載で、アレもこれも書かなくっちゃと思っていたのだけれど、一昨日の晩、突然の発熱。
いわゆる「おなかの風邪」という奴らしい。
昨日一日、同じ種類の風邪で学校を休んだオニイとともに、ぼーっとコタツでまどろんでいたら、一週間分の日記ネタ、燃え尽きてしまった。
ということで、本日、ひさしぶりに更新。
燃え尽きたネタは後日、さかのぼってUPするかも・・・という事で・・・。




昨日、熱でボーっとした頭で何かのワイドショーを聞くともなく聞いていた。
どこやらのアンケートで中学生の15パーセントが「死者は生き返る」と答えたという。その数字がどうしてでてきたものなんだか、私には判断がつきにくいが、「死んでしまったらおしまいさぁ」と言う自明とも思える事柄を中学生にもなって理解していない子ども15パーセントもいるとは、どうしても信じがたい。
コタツの反対側で、同じく体温計とにらめっこしているオニイに、「ねえねえどう思うよ?アンタのクラス40人として、『死んでも生き返る』と信じてる子が6人もいると思う?」
「さあ、わからんなぁ。」
相変わらず、大儀そうな返答。
「でもなぁ、信じてるかどうかは別として、『生き返る』と書く奴はいるかもしれんなぁ。」

考えてみれば理屈をこねるのが商売のような生意気盛りの中学生だ。
「死んだ人は生き返ると思う?」と聞かれて、物理的な肉体の死ではなく「永遠の魂」やら「輪廻転生」やら、聞きかじりの死のイメージを答える子もいるだろう。
「愛する人が死んでしまってもいつか生きて戻ってくると思いたい」という希望や信仰上の信念から「生き返る」と答える子もいるだろう。
昔の子どもに比べて、今の子ども達が肉親や知人の臨終や葬儀に立ち会ったり、ペットや身近な動物の死を直視する機会が減った事を嘆く人もいるが、それも今に始まった事ではない。
「人が死んだらどうなるか」という、本当は誰も答えを知らない、個人の人生観や宗教観にも関わる繊細なテーマを、漠然と子ども達の前に投げたアンケートの限界が、15パーセントという微妙な数字の上に現れているような気もしてくる。

私自身が初めて肉親の臨終の場面に立ち会ったのは、生後3ヶ月に満たない次女の最期を病院で看取った時のことだ。
目の前で少しずつ生気を失っていくわが娘の肉体を見守りつつ、「この子はもう、ここにはいない。とうに壊れた肉体をおいてどこかへ羽ばたいていったに違いない。」と、妙にさめたまなざしで計器が脈打つ弱弱しい最期の鼓動を数えていたのを思い出す。娘の死という過酷な現実を、「肉体の死」と「魂の再生」とに分けることによって、何とか受け入れようとしていたのだろう。
小さな妹の死を幼い子ども達に告げるときにも、頑なに「死」という言葉は使わなかった。「お空に旅行に行ったよ。」とか、「いつかきっと、もう一回、生まれなおしてくるよ」とか、再生をイメージさせるような言葉で妹との別れを伝えた。
あの時、オニイはちょうど今のアプコと同じくらい。妹の誕生を心待ちにしていたアユコは3歳半ぐらいだったか。
母が必死な想いで綴るおとぎ話のような「死」のイメージにこっくりこっくり頷きながらも、急に「かわいそう」と大きな声でわぁわぁと泣き出したアユコ。幼いながらも、失われてもう戻ってこない命である事を悟っているのが分かり、胸を衝かれたのを思い出す。

2年後にアプコが生まれた。
私たち家族は新しい赤ちゃんを「お帰りなさい」という言葉で迎えた。
あの日、私や子ども達が「死者は生き返るか」と訊かれたら、迷いもなく「生き返る」と答えていただろう。
「死」という受け入れがたい、けれども必ずやってくる過酷な別れの運命を、人がなんとか受け入れるためには、時にはファンタジーの助けが必要になることもある。
「いつまでも心の中に生きているよ。」
「お星様になって君を見てるよ。」
「きっとあなたのそばに生まれ変わって帰ってくるよ。」
そういう、人の死を希望に変えるファンタジーの言葉が、陰惨な事件や大災害のニュースの溢れる現代の子ども達の中にも、15パーセントという数字の中に幾分かは含まれているということに、私自身は少し安堵を覚えたりもする。


熱のある頭で考え流した思考の羅列。
失敗失敗。

今朝になって、頭すっきり、目覚めばっちり。
昨日の事が嘘のように、忙しく動き回ってます。
立ち直り、早っ!


月の輪 |MAILHomePage

My追加