月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
オニイが珍しく木曜夜の剣道の稽古に行ってくるという。 普段の小中学生向けの稽古ではなく、高校生や一般の人達も集まってくる武道館での合同稽古。高段者の先生方や近隣の高校の剣道部員なども混じる稽古なので、ずいぶん激しい稽古が行われているらしい。 春に体調を崩して以来、なんとなく参加できなくなっていた武道館の稽古に、急に「行ってくる!」と言い出したのは何故なんだろう。 ふしぎに思って、オニイにちょっと訊いて見た。
「あのな、ずいぶんK先生の顔を見てないからな。ちょっと挨拶して来ようかと思って。」 K先生はオニイが小学一年で剣道を始めた時、竹刀の握り方、挨拶の仕方からお教えいただいた先生。鬼瓦のようないかついお顔、怒号のような大きなお声の古武士の風貌の老剣士だ。数年前に訳あって子ども達の稽古の指導を辞められ、今は大人の稽古のときか、大きな試合の時にお顔を見かけるだけになった。 オニイが剣道を習い始めた頃には、たまたま子どもの稽古生が二人とか三人とかとても少くて、それこそ一対一でみっちり指導していただくことが続いたりして、オニイのK先生への憧れと親愛の想いはことさら強い。 K先生の方でも、こつこつまじめに稽古に通ってくるのに、なかなか飛躍的に上達するという事の無い最後の直弟子に「こいつ、なかなかうまくならん。」と嘆きながら、いかついお顔をくしゃくしゃにして笑ってくださる。 無骨で世渡りはあまりお上手そうではない老剣士の飄々とした後ろ姿に、オニイは強く惹かれるのだろう。 K先生が道場をやめられてからも、その後姿を慕ってオニイは何度も高段者向けの武道館の稽古に何度も通った。
「でも、何を思って『今!』なの?ずいぶん武道館の稽古はお休みしてたのに・・・。」 「いや別に意味はないんだけど、ずいぶんK先生には会ってないしな。もしかしたら、このまま会えへんまま、終わったら嫌やなと思いついたんや。」 K先生はまだまだ矍鑠としてお元気そうには見えるが、何と言っても高齢だ。持病もいくつかお持ちのようだから、いつ道場へ来られなくなるかも判らない。 「T先生みたいな事だって、ないとは言えんし。」
T先生は数年前に若くして急逝された、やはり高段者の剣道の先生。 とても厳しい先生で、ひょろひょろやせっぽちのチビだったオニイは稽古中しょっちゅう弾き飛ばされ、しごかれたものだったが、そのT先生がある日突然急な病に襲われてなくなられた。 つい先週まで元気に稽古をつけてくださっていた威丈夫が、ある日突然手の届かない所へ逝ってしまわれた衝撃は、まだまだ幼かったオニイに強い印象を残したのだろう いつもそこに居て下さるものと、気にも留めずに見上げている師が、もしかしたら急にふわっと儚く旅立っていかれる。「縁」というものの危うさをオニイは確かに知っている。
まだまだお元気に自転車で道場に通っていらっしゃるK先生に、急逝なさったT先生の儚さを重ね合わせて想うのは、失礼極まりないことではあるのだけれど・・・。 それでも、思い立ったらとにかく、お元気なK先生のお顔を伺って、ご無沙汰して希薄になりそうな「縁」を強く結びなおして置かずにはいられないオニイの切迫した想いもよくわかる。 「よし、久しぶりに武道館の稽古に出てみよう。」 曖昧な不安をそのままにせず、師の後姿を見失う前に、えいやっと行動を起こせるオニイの事を偉いなぁと思う。大事な縁をつなぐためには、そんな「えいやっ」が必要なときもある。
小さな「えいやっ」の勇気を怠ったために、見失ってしまった私自身のいくつかの「縁」を想う。 あの時、もう一度お会いしていたら・・・ あの時、ちゃんとお手紙を差し上げていたら・・・ わずかなためらいや戸惑いの為にぷつんと切れてしまったご縁の糸を、今となっては結びなおす術もない。 そういう人の縁の危うさを、強く結びなおすことを知っているオニイの若さを、なんとなくうらやましく思ったりもする。
|