月の輪通信 日々の想い
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朝から大騒ぎ。 ひいばあちゃんが昨夜、家の中で滑って転んだという。歩けないというわけでもなくて、大丈夫だろうと寝間へ上がられたのだが、今朝になってやはり、右の腿のあたりが痛いとのこと。 あと数年で100歳に届こうという高齢のひいばあちゃんのことだ。ちょっと転んだだけで骨折したり、歩けなくなったりする老人の話もよく聞かれる昨今、これは一大事と、病院を億劫がるひいばあちゃんを近所のかかりつけの医院に送る。 父さんのワゴン車よりは、車高の低い軽自動車のほうが乗り降りが楽だろうとおんぼろトッポが出動となる。 父さんに抱きかかえられてひいばあちゃんが乗り込み、いっしょに付き添っていくという義母が乗り込み、負ぶったり担いだり要員の父さんが乗り込む。そして、運転手の私が乗り込む。 おんぼろトッポに大人が四人。 おー、久しぶりの重量感! ・・・で、なんで、4人も?
医院に着くと、さっさと一人で車を降りそうになるひいばあちゃん。 最初に車を降りた私が手を貸すと、すかさず後から降りてきた義母がひいばあちゃんの反対側の腕をつかむ。 体調次第では自分自身も足下がふらついたりもする義母が、意地のようにひいばあちゃんの手をひく。そのための介助要員として父さんや私、二人もついてきているというのに、「ひいばあちゃんの手引きは私が・・・」という気迫が感じられる。さすがに嫁姑だなぁ。長い間、静かに穏やかなお嫁さんを務めてきた義母の強い意志というか、意地というか、そういうものすら感じられて、う〜ん、「嫁姑」というのは実に奥が深いと唸ってしまった。 当のひいばあちゃんはというと、足が痛いとは言うものの、全く歩けないわけではないので、ともすると四方から延びてくる介助の手をうるさそうにもどかしがって、一人で歩こうとなさったりする。 さすがに少女の頃からこの年齢になるまで現役で仕事を続け、衰える事を知らない老人の底力はすごい。怪我をしていても、余分に人に寄りかかったり助けられたりする事を潔しとしない。明治の女は偉いワイと、こちらもう〜んと唸りこんでしまう。
結局、ひいばあちゃんの怪我はただの捻挫で、骨も折れてはいなかった。安静とシップでよくなるという。これまたすごい。 高齢者は一度、転んで骨折でもすれば、たちまち体力が衰えたり、ボケが始まったりというような事も聞くので心配したが、どうやら杞憂に終わって、ホッと一安心。 なにしろ我が家のひいばあちゃんは97歳の今も毎日仕事場に入り、釉薬掛けや包装の仕事こつこつとこなす現役仕事人だ。耳こそ遠くなり、作業能力に衰えも見え始めたが、毎日当たり前のように仕事場に入り、手すきになれば自分で新しい仕事を見つけて、次々に取り組んでいく。その前向きで確実な仕事振りはなんといっても驚異的だ。 遠い未来の私自身の生きていく末を思うとき、こういう人の強い意志に満ちた静かな生き方の厳しさはまぶしくもあり、希望でもある。 ああ、本当に軽症でよかった。 よかったよ。
うちに帰って、メールを開いたら友だちのHさんからのメールが入っていた。 「どうしたん?今日は車に年寄りがてんこもり、乗ってたね。」 医院に送っていく途中、ウォーキング中だったHさんSさん2人組をびゅんと追い越して走ったのだ。いつも私一人か、子ども達を乗せているだけのトッポにぎゅうぎゅうに大人4人が乗っていたので、「きっと、Hさんたち、笑ってるよ。」と話していたら案の定。 「てんこ盛りとは失礼な!でも軽症でほっとしたよ。」 とメールを返す。 「失礼な」とは言いながら、実はHさんもSさんも家族に高齢者を抱えている。子育てが一段落して、ホッと一息ついたかと思うと今度はおじいちゃんおばあちゃんの心配をする年代に差し掛かる。「ばあちゃんが転んだ!」と車で駆けつけるドタバタは、私にも彼女らにも決して他人事ではない。 「てんこ盛り」と一緒に笑えるのはお互いにそのことがよくわかっているからなのだなぁと思ったりもする。
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