月の輪通信 日々の想い
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玄米ご飯を炊いてみた。
正月に実家に帰省したとき、母が冷凍庫の中からごろんと引っ張り出してきたラップの包み。 母がまとめ炊きして冷凍保存しておいた玄米ご飯だった。 ぱらぱらと小豆を混ぜて圧力鍋で炊いておいたのだという。 玄米ご飯は、硬くてぼそぼそして食べにくいものというイメージを持っていたけれど、意外にもちもちして香りもよく、プチプチした感じが「結構いける」。小豆も一緒に炊き込んであるので、ちょっと色の薄いお赤飯という感じ。 なんとなく体にもよさそうだし、ちょっと興味もあったので、母が冷凍保存していた冷凍玄米ご飯の包みを一つ二つおすそ分けしてもらって帰ってきた。 帰宅後、「ちょっと白飯がたりないな」という時に引っ張り出してきて、自分用に解凍しておいたら、「なんかうまそうなご飯だね。」と大の赤飯好きのオニイが横からつまむ。「それ、何何?」とゲンがつまむ。当然後から来たアユコやアプコがつまむ。 結局、小さな包みの玄米ご飯は子ども達のつまみ食いで半分以上、減ってしまい、私の口にはあまり入らなかった。
玄米ってこんなに美味しいものだったのか。 なんとなく、食べにくそう、硬そうと遠巻きにしていた食品が急に身近になってきた。 「そんなに美味しいというのなら一度うちでも玄米を買ってみよか」と生協のカタログを眺めていたら、父さんが「玄米ってあれの事じゃない?」と台所の隅っこの米袋を指差した。 年末に、おばあちゃんちが知り合いの方から頂いたという30キロの大きな米袋。「精米してないから、近所の精米機で精米してくるといいよ。」と我が家にドンと払い下げてもらったのだが、我が家はいつも無洗米派。精米機も農協の前にあるのは知ってるけど、これまで利用した事もない。 なんとなく億劫な気持ちで、手をつけずに放置していたのだけれど、よく考えて見るとアレって玄米よね。 「精米してないお米」=「玄米」という認識が無くて、ついつい「玄米」を買ってくることを思いついた私だけれど、すぐ自分の手元にこんなに大量に「玄米」が存在していたことの可笑しさ。 それまでちょっと気詰まりな「精米してない扱いにくいお米」だったものが、急に「ちょっと美味しくて体にもよさそうな特別なお米」に変身してしまう軽薄さに、我ながら笑ってしまう。
「玄米ご飯ってどうやって炊くの?」 電話で聞くと、母は笑って圧力鍋で玄米を美味しく炊く方法を教えてくれた。前の晩から水につけておいた玄米を圧力鍋で炊いて、充分蒸らして食べるのだそうだ。母流の玄米ご飯は、玄米と一緒に小豆をぱらぱらと一緒に混ぜて炊く。 「ちょっとおこげが出来るくらいが美味しいよ。」 という。そういえば、いつも炊飯器お任せの白飯では、おこげ自体ももうずいぶん久しく食べた事が無かったなぁ。炊飯器を使わずにお鍋でご飯を炊くことすら最近ではほとんどやったことがない。
そそくさと圧力鍋を引っ張り出し、ためしにうちでも玄米ご飯に初挑戦。 ネットで調べて見た水加減では、母のよりは若干やわらかめにはなったけれど、微妙に香ばしいおこげも出来て、まずまずの仕上がり。 さっそく夕餉の食卓にあげると、子ども達は「玄米ご飯をおかずに白飯」という奇妙な組み合わせで、3合の玄米ご飯をあっという間に食べつくしてしまった。
小学校では、高学年になると自分達で田んぼを作り、田植えや稲刈りを経験して米作りの過程を体験する。収穫後は、昔の道具で脱穀をしたり、すり鉢でもみすりをしたり、一升瓶で精米をしたりして普段の生活では経験できない昔の農業を体験させていただく。 私自身も何度か子ども達の参観や学校行事の折に、何度かそうした授業を見せてもらって、子ども達が自分達で精米したわずかな米をお相伴したりした事もある。 小さな苗からひと夏を経て、実った稲穂が毎日食べているふっくらとした白米になる過程を子ども達の授業に相乗りでいくらかは経験させていただきながら、玄米ご飯の美味しさを親しく知る事ができなかったのは何故なんだろう。 「精米していないお米」と「玄米」が、ちゃんと頭の中でイコールで結ばれていなかった無知を今更ながら恥ずかしく思う。 スーパーで買ってくる米はきれいに精米され、昔のように小石や籾殻のかけらが混じる事もほとんどない。無洗米にいたってはわずかな糠すら取り除かれている。そんな完全に精製された、製品としての白米になじんだ私には、やはり実体験としての米作りの知識を持ち合わせていなかったのだなぁと改めて感じた。
我が家で初めて炊いた玄米ご飯。 夕食後、少しだけ残ったご飯を小鉢に入れて取っておいたら、朝、見てみるといつの間にか小鉢が空になっていた。 夜中に、二本足で歩くどこぞの大きなねずみが、夜食代わりに食べてしまったものらしい。 今日もそそくさと2度目の玄米ご飯を炊いてみる。
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