月の輪通信 日々の想い
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2004年11月22日(月) リセット

恒例になった小学校での五年生の陶芸教室。
朝からバタバタと電動ロクロや材料の粘土などを車に積み込み、始業時間ぎりぎりに滑り込む。
三十数名を二クラス。
焼き物の種類や陶芸の歴史について短いレクチャーをして、水引きロクロでの制作を実演、そのあと手びねりによる抹茶茶碗の制作を指導する。
水引きロクロでするすると土塊が茶碗や壷に変わっていくのを見て息を呑み、冷たい粘土の感触をワイワイと楽しむ子ども達の笑顔は、毎年変わらない。
制作が始まると、父さんはテーブルを回って手伝ったり指導をしたり。にわか講師助手の私も「おばちゃ〜ん!」とあちこちから呼ばれて走り回る。
ものを作るということが、子ども達の柔らかな心にさわさわと新しい風を送り込む瞬間を見るようで楽しい。

毎年、この小学校の5年生に陶芸教室を行うようになって5,6年になる。
我が子の参観で一年ごとに成長していく子ども達の授業を見るのとは違って、毎年同じ時期の新しい5年生たちにほぼ同じ内容の講座を持たせてもらうと、クラスや学年によるカラーや子ども達の気質の変化が感じられ、なかなか面白い。
とても生真面目で教えやすいクラス。子ども達のノリがよくて、やたらハイテンションなクラス。なんとなくまとまりがなくて盛り上がりに欠けるクラス。
それは担任の先生のタイプや子ども達の質にもよるのだろうけれど、同じ年齢の子ども達にほぼ同じ内容の教材を与えても、そのクラスの持つ雰囲気や学習態度によって子ども達が習得する度合いに大きな違いが出るものだなぁと改めて実感する。
出来上がった作品の出来不出来を見ていると、個人の陶芸の技術以前にクラス全体の人の話を聞く能力、新しい事を学ぼうとする意欲、向上心のあるなしが、成功失敗の比率を大きく左右しているという事が感じられる。
教材研究や授業技術の向上のほかに、クラスの中に基本的な学習態度や学ぶ事を楽しむ雰囲気を導いていかなければならない学校の先生方の職責は重い。
大変なお仕事だなぁと思う。

それとは別に、ここ2,3年の子ども達を見ていて思うこと。
制作の途中で失敗したり、思うようにいかなくなったりしたときに、ぐしゃっとあっけなく自分の作品を壊してしまう子どもの数が増えている。
毎回子ども達に教えているのは「手びねり」という方法で拵える抹茶茶碗。あらかじめよく練り合わせた塊の土から少しづつお茶碗の形をひねり出して作り上げる方法だ。
新たに粘土を足して接いで行く方法と違って、「手びねり」だとある程度決まった大きさの作品が作りやすく、途中で粘土の中に空気の層が入ることがないので初心者にも比較的失敗が少ない。
ところが、形作りに失敗した時に、ぐしゃっとつぶしてしまうとその土は新たによく捏ね上げないとどうしても空気の層が入ってしまい、すぐに再生して使うことが出来なくなる。
「失敗したと思っても、絶対ぐちゃっとしないで救急車を呼んでね。」
と子ども達には何度も声をかけ、できるだけ手直しして最初の形を生かそうとするのだが、どうしてもクラスに一人や二人、ぐしゃっとやってしまう子が出てくる。

最初に「ぐしゃっ」の子が出たのは2年前だ。
苦心三嘆してもなかなか自分の思う形が出来ず、残り時間もあとわずかというところでイライラして「ぐしゃっ」とやってしまった。もう修正の余地もなくて、新しい粘土を渡して作り直してもらったら、ものの数分でお茶碗を作り上げ、時間内に完成させてしまった。
「きっと最初の作品は、彼の思うものではなかったのでイライラしたんでしょうね。」と当時の教頭先生が解説してくださったけれど、それまでの熱中振りといきなり「ぐしゃっ」のギャップに驚いて、なんだか解せない気持ちになった事を思い出す。
去年の5年生でも「ぐしゃっ」が数名。
どうにもこうにもうまくいかなくてというような行き詰った感じではなくて、「なんだか気に入らない」とか「いやんなっちゃった」というようなノリで、壊してしまう子も現れだした。
そして今年は、ついに一クラスでまとめて3人の「ぐしゃっ」が出た。
しかもその中には同じ子が2,3度「ぐしゃっ」を繰り返すケースも見られた。

苦心して作り上げている途中の作品を「ぐしゃっ」とやるのは、リセットに似ている。
それまでの制作過程すら恥じるように容赦なく「ぐしゃっ」とつぶして、急いで新しい土塊に戻そうとする。
「その土は空気が入っちゃったから、駄目なんだよ。」といわれて唖然とする。
しょうがないなぁと新しい粘土を貰うと、悪びれるでもなく面倒がるでもなく、さっさと新しい作品に取り掛かる。
そうして出来上がった新しい作品にすら、さほど強い思い入れや愛着を持っているようにも見られない。
そのこだわりのなさは、現代の子ども達のさらっと要領のいい生き方の志向にも似て、はぁ、こんなものかとため息をつく。

子ども達の気質の変化を、何でもかんでもゲームやネットの仕業とするのはよくないとは思うが、失敗はさっさとリセットしてしまえばまたすぐに新しいゲームが始められるという思い込みが、少なからず子ども達の思考回路に組み込まれつつある事にある種の焦りを感じる。
苦心して苦心して、やっぱりうまく纏め上げる事の出来なかった作品を「ぐしゃっ」とすればその形はなくなってしまうけれど、苦労した制作の過程は決してゼロになるわけではない。
リセットボタンを押せばゲームの画面は振り出しに戻るけれど、「ぐしゃっ」とやってしまった土は元のまっさらな土に戻るわけではない。
簡単にリセットしてゼロに出来るものと、一度ぐしゃっとやってしまうと二度と元通りにはならないものがあるということに対する気構えが希薄な子どもがじわじわと増えているのではないだろうか。

ものを作るということを通して、子ども達はたくさんの事を学ぶ。
一つのことをやり通すことの楽しみ。
苦心して一つ一つ作られたものへの愛着。
ものを作り、誰かが作ってくれたものに助けられて生きているという人間の営み。
そうした事がはっきりと子ども達の胸に刻まれるためには、
普段の生活の中で子ども達の中に、それを受け入れるだけの豊かな感情や感性の素地をしっかり構築しておかなければならないのだという事を強く感じる。


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