月の輪通信 日々の想い
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2004年10月10日(日) |
「困ったさん」を育てる人 |
晴天の下、無事執り行われた幼稚園の運動会。 我が家にとっては10回目にして最後の幼稚園での運動会となる。 年長さんになったアプコは、鼓笛隊の行進や組み立て体操などの花形競技に出場。 緊張した顔で自分の持ち場に走り回る生真面目ぶりは、アユコの幼稚園時代にそっくり。担任の先生の足元にしがみついて、おどおどと入場していた3歳児の頃から見ると格段の成長振り。 大きくなったもんだなぁと母、感涙。
中、一年抜かして11年間、同じ幼稚園の運動会に参加してきた。 見回すと、周りは20代、30代の若いお父さん、お母さんたち。 さすがに10年もいると年もとるわなぁと、父さんと二人、嘆息、嘆息。 その間、園児の数は4クラス増。近隣の新興住宅地からの園児が増え、オニイの頃にはのんびりした田舎の幼稚園だったものが、すっかりマンモス幼稚園と化した。 園庭でのんびり行っていた運動会も数年前から隣の小学校のグラウンドを借りて行うようになり、観覧者の数もずいぶん増えた。そして保護者の質そのものもずいぶん様変わりした感がある。
正直なところ、今日の運動会は全体としては「なんだかモタモタしているなぁ」という勘がぬぐえなかった。 競技と競技の間が妙に間が空いて待ち時間が多い。実際、終了予定時刻が午前午後とも数十分ずつずれ込んだ。園児の数が増えると、それも仕方ない事かと眺めていたが、しばらくして、だんだん遅延の理由が分かってきた。 集団のペースから外れる子どもがやたらと多いのだ。 競技前の集合時間に間に合わないで、かなり遅れて保護者に連れられてくる子どもがいる。 入場して演技する直前になって、「おしっこ」を訴える子どもがいる。 かけっこの待ち時間にふらふらと待機場所を離れて、観覧席に向かって記念撮影のポーズをとっている子どもがいる。 子どもだけではない。親子競技の集合に遅刻して何度も放送で呼び出される保護者や、事前に知らされた準備物を忘れ競技直前に先生を慌てさせる保護者もいる。 要するに、ほんの数人の「困ったさん」待ちのために進行が遅れたり、長い待ち時間が生じたりする事がやたらと多いのだ。
相手は幼い幼稚園児のこと。 どこかの国のマスゲームのような一糸乱れぬ集団演技や、列車ダイヤ並みの正確なタイムスケジュールを要求するつもりもない。 本番間際に「おしっこ!」と訴えるのも、ママ恋しさに泣きべそをかいて終始先生に抱っこされたまま競技を終えるのも、子どもらしくて可愛いといえないこともない。 本当に困ってしまうのは、その子どものために100人の子どもが待たされても、申し訳ないとか恥ずかしいというような素振りも見せず、一向に動じない保護者が増えた事だ。 演技中ずーっと泣いて先生にしがみついたまま通した子どもを、退場門で迎えてそのままポーズをとらせ、ちゃっかり先生とのツーショットの記念撮影していく厚顔ママもいる。 私立の幼稚園ゆえ、先生方も面と向かって園児や保護者に文句を言う訳にも行かず、「いいんですよ〜」とにこにこと対応されてはいるが、きっと内心笑顔も引きつる思いでおられた事だろう。
ここ数年、そういう「困ったさん」の数が目に見えて増えてきた。 それは、未成熟な子どもが増えたせいというよりは、我が子が集団のペースから遅れてもちっとも動じない、わが道を行く保護者が増えたせいなのかもしれない。「だってうちの子がいやだって言うもの、仕方がないわ」と子どものわがままや個人的な事情を集団行動より優先する事を当たり前に主張する。 先週、小学校の運動会の駐車場問題で、「時には例外を認めるやさしさを・・・」と述べたばかりだけれど、我が子のせいで運動会の進行が遅れ、ほかの子どもが待たされたり先生方に迷惑をかけたりしても申し訳ないとは思わず、むしろ「目だってラッキー」「そのくらい優遇されて当たり前」くらいのノリの保護者が目立つようになってきたのは困った事だなぁと思う。 その背景には、「子ども達一人一人の気持ちや個性を大事にする」ということと、「一人の子どものわがままや主張を、集団行動の規律よりも優先すべき」ということの取り違えがあるような気がする。 近頃よく言われる「小一プロブレム」(集団行動の苦手な子どもの増加で一年生の授業が成り立たなくなる問題)というのも、実は大人のこうした「個と集団」への意識のずれが、知らず知らずのうちにみんなと歩調を合わすことの出来ない「困ったさん」をはぐくんでいるということの結果に他ならない。
そしてさらに困ったことには、集団行動から外れる子どもや遅刻やわがままで迷惑をかける子どもに対して、よその保護者や教師もまた「みんなに迷惑をかけて駄目じゃないの」と正面から叱る事が出来にくくなっていることだ。 「個人の事情を重んじる」ということと「集団のペースにあわせる」ということを並べると、集団を優先する事はあたかも個人の尊厳を傷つけているようなニュアンスにとられやすい。 また、自分から「特例」を要求する人たちというのは、ほかの人たちの蒙る迷惑や不快感には著しく鈍感なくせに、ことさら声高に自分や我が子の権利を主張する。 「一人一人を大事にする」という錦の御旗の元に、幼い子どもの些細なわがままや主張をいちいち受けとめて優先させてしまう親や教師の優柔が一部の「困ったさん」たちを助長させてしまう結果になっているのではないだろうか。
「みんな待ってるんだから、ちょっと我慢させなよ」 「あんたのせいで、何人が迷惑を蒙ると思ってんだよ」 誰かが面と向かってはっきり言ってやればいいのだ。 うんうんとうなずく人はいっぱいいる筈なんだ。 でも、職業上、幼稚園の先生方は絶対にそんな事はいえない。 監督している先生方がいえない以上、周りの保護者も口を挟まない。 誰も指摘しないから、「困ったさん」たちは自分達の優遇措置が受け入れられていると勘違いしたままどんどん厚顔になる。 「困ったさん」を育てている張本人は誰か。 もしかしたら、その場では口をつぐんで、Web上でたらたら文句をたれている今のアタシかもしれない。
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