月の輪通信 日々の想い
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2004年06月13日(日) 若き日の読書

晴れやかな好天気。
男の子達を剣道の朝稽古に送っていく車のラジオから、聞こえてきたのは「波乗りジョニー」
少しボリュームをあげ、車の窓を開ける。
さわさわと風が気持ちいい。
「やっぱりこういうお天気の日に聴きたいよね。」
わが息子も、サザンの曲を同じ気分で聴く事が出来る年頃になったのだなぁ。
ちょっと嬉しい。

午後、皆でビデオ屋と本屋に出かける。
子ども達はそれぞれに好みのビデオを借りたり、本を買ったり。
帰りに本屋の店先に出ていたおもちゃの水鉄砲をアプコに買う。
「僕はもう要らないよ。」というゲンにも、同じ物を無理やりもう一個買って帰る。
果たして、うちへ帰るとゲンとアプコ、二人が戸外で今年最初の水遊びに興じている。
「アプコの相手をしてやる」と言いながら、まだまだ全身びしょぬれになって水遊びを楽しむゲンの笑顔は幼い。
愛しいなぁと思う。

オニイが今日買ったのは、新潮文庫の「人間失格」(太宰治)
ずいぶん前から、読んでみようかなと言っていたが、ちょうど一番落ちこんでいた時期だったので、「太宰を読み始めるのは、もうちょっと心が元気な時の方がいいよ。」となんとなく遅らせていた。
学校の授業でちょうど「走れメロス」を習っているようだし、誰だかクラスの友達に勧められたのかもしれない。
これまで、赤川次郎や星進一など、どちらかと言うとお子様向けの延長のような本を次々にむさぼる様に読んできたオニイも、そろそろ「大人の本」の入り口に立ち、太宰のような暗い小説にはしかのようにかぶれてしまう年頃にさしかかったと言う事だろうか。
きゅうに背が伸びて、声もだんだん低くなり、気難しい言動が多くなったと思っていたら、しっかり興味の行き先も選ぶ本の傾向もがらりと変わっていくのだなぁ。
嵐のような辛い時期を乗り越えて、たしかにオニイの中で何かが変わって来たのが判る。

私自身の中学校次第を思い返す。
ちょうど、オニイと同じように学校の国語の授業で「走れメロス」を習う頃、本格的に「大人の本」の世界に足を踏み入れた。
当時、私がいたく傾倒していた国語の先生の導きで、私は近現代の日本文学の名作の数々をそれこそむさぼる様に次々に読み飛ばした。
帰りに先生が次に読むべき本を教えてくださり、私はその本を図書館で借りたり文庫で買ったりして夜を徹して読み通す。短い感想を書いた手紙を先生の机に置いておくと、帰りにはまた次の本の指令を出してくださる。
まるで、スポーツ選手とそのトレーナーの様に、私はひたすら読み、先生はそれに応えて次々に新しい本を選んでくださった。
ご自身も大変な読書家でいらしたN先生と過ごした中学生時代に、私は一生で一番たくさん本を読んだと思う。
今から思えば、同時に何冊もの小説を次々に読み飛ばすトライアスロンのような読書経験のなかで、一つ一つの作品の味わいや意味をどれほど汲み取る事ができたか
は甚だ心もとないのだけれど、それでも体力も知力も一番無理が利くというあの時期にあれだけの多くの書物と出会うことができた事は本当に幸福なことだったと思う。

今はもう、あの日のように幾日も睡眠時間を削って長編小説を読みふけったり、本屋でドンと山積みの文庫本を一度に買いこんで来たりという体力も知力もなくなってきた。けれどもその代わりに、好きな作家の好きなエッセイを少しづつ味わいながら、惜しむ様に読み進めていく楽しみが判るようになってきた。
少女には少女の、おばさんにはおばさんの本との付き合い方がある。
そしてオニイにはオニイの彼なりの読書生活が始まっていく。
その「はじめの一歩」が、「人間失格」なのだろうか。
文庫のカバーのプロフィールを見て、「自殺未遂とか、入水事件とか、何だかひどい人生だなぁ。」と呆れながら、太宰の世界に足を踏み入れようとしているオニイ。
太宰の破滅的な人生の何が13歳のオニイの心の琴線に触れるのだろう。

新潮文庫では太宰治の作品の背表紙の色は、30年前と少しも変わらぬ黒だった。
ああ、懐かしいと手に取ったものの、当然の事ながら表紙の図案は見なれたあの白黒の意匠とは違っていた。
オニイはオニイの「太宰」と出会う。
あの日の私とも違う、勿論今の私とも違う、オニイにはオニイの本の世界が開けていく。
頼もしいような、少し寂しいような、そんな気持ちで「人間失格」を買った。

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