月の輪通信 日々の想い
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2004年04月16日(金) 誰のための人生か

イラクの人質事件。
3人の方が解放されたというテロップが流れてからしばらく、現地から送られてくる断片的な映像や家族の方々の会見の様子を追いかけるように次々と眺めていた。
「無事で何より」
ほっとした気持ちとともに、何とはなしに、
「この人たちがこのあと、がっかりするような言動をしないでくれるといいなぁ。」
という微かな棘のような予感を持って映像を目で追っている自分に気がついた。
喜ぶ家族がある一方、新たに行方の知れない2人のジャーナリストの方々があるということが、まだまだ心の隅に引っかかっている。

子供が自分でやりたいと決めたことを、「自分の責任でしっかりおやりなさい」と送り出せる親になれるだろうか。
BBSで、子どもの立場からのご意見を頂いて、自分の子育てについていろいろ考えることの多い数日間だった。

「自分の人生は自分で決める権利がある。
自分で決めたことなのだから、それで命を失ったとしてもそれも本望。
親は子どもの意志を尊重して、見守ってやらなければならない。」
確かに正論であると思う。
出来る限り、子どもの巣立ちを笑顔で見送ってやれる強い母でありたいとも思う。
けれども口ではそんな体裁のいいことを言いながら、
「やっぱり私は子ども達を是が非でも引き止めるだろう」と考えている私がいる。

「自分の人生は結果がどうなろうと自分で選ぶ権利がある。」
子ども達が一人前になって、こんな言葉を親に対して投げかけるようになったとき、私はどんな気持ちでこの言葉を受けとるだろうか。
「よくぞ、これまで成長した」と嬉しく思うのだろうか。
「何を生意気な。一人で大きくなったような顔をして・・・」と腹を立てるだろうか。
人の人生は確かにその人自身のものではあるが、彼がどういう生き方を選ぶかと言うのはその人だけの問題ではない。
彼が危ない目にあえば、泣き喚いて彼を救おうとする家族がいる。
彼が居なくなれば、自分の半身を奪われたように苦しむ人がいる。
「命を失っても本望」
と言う決意は、うがった見方をすれば、
「自分の意志を貫くことさえ出来れば、周囲の人がどんな思いをしてもかまわない。」
にも通じることかもしれない。

「私は自分の夢をかなえるためにはどんな犠牲もいとわない」
「私は自分に正直に生きたい。」
一見、アクティブで積極的な理想の生き方のように思われるその言葉。
実は、私はこういう言い方をする人が嫌いである。
自分の決断によって周りに及ぼす影響。
自分の行動を心配しながら見守っている人の気持ち。
周囲の人たちが自分に期待している役割や立場。
そうした、ある意味ではまどろっこしいしがらみに過ぎない諸々の事情をすっぱりと切り捨てることの出来る人間を私はよしとしない。
我が子が自分の自由な意志を語るときに、そういう容易に振り切ることの出来ない引き綱の存在をいつも忘れることなく意識できる人間にそだっていって欲しいとも思う。
なりふりかまわず自分の夢を追うことの出来る人間もよいけれど、誰かのために自分の夢をあきらめることの出来る人生も私は等しく尊いと思うのだ。

解放された3人の映像と、日本で吉報を喜ぶ家族の人たちの興奮ぶりに微妙な温度差があるのに気づいて、私はニュース映像を追うのを止めた。
3人には、「わが身の危険を顧みることなく理想に燃えて戦地へ赴いた勇敢な活動家」のままでいていただいたほうが後味はよさそうだ。
見たくないものを見せられる前にTVを消そう。
今回の事件からは、もう充分な教訓を頂いた。
ひとまず、一区切りと言うことで。


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