月の輪通信 日々の想い
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2004年04月18日(日) お返事はハイ

ゲン、叱られ週間に入っている。
いったん叱られ週間に入ると、日々のささやかな言動にいちいち母のチェックが入る。
父の小言が入る。
説教ジジイと化したオニイの説教も入る。
ちっちゃい母さんであるアユコのチクリも入る。
そして、アプコも尻馬に乗る。
さぞかしやりにくい事だろう。

発端は「返事」のこと。
近頃ゲンは「返事」をしない。
呼ばれたり、用事を言われたときに聞こえていなかった振りをする。
対面して話している最中に突拍子もなく違うことを言い出したり、別のことをやりはじめたりして、話題をそらす。
少し前から気になっていたのだが、最近になって他の事と絡んで問題が明らかになってきたので、一挙に矯正しようという流れになった。

最近の子は確かに返事をしない。
親子の間だけに限らず、先生と子どもの間でも、子ども同士の間でも、そしてもしかしたら、大人同士の間でも「返事」という習慣がおろそかにされているような気がする。
たとえば親が子どもに用事を頼む。
「○○ちゃん」
「ハイ」
「新聞とってきてくれる?」
「はい」
これが教科書どおりの会話だろう。
最初の「ハイ」は「聞こえたよ」という意味の「ハイ」
あとの「はい」は「とって来るよ」という意味の「はい」
こういう状況に立ったとき、子ども達はしばしば最初の「ハイ」を省略する。
「んん?」と振り返ったり、手を止めてこちらに注意を向けるということすらしないこともある。
そしてあろうことか、そのあとの「はい」すら省略して、無言のまま新聞をぽいと手渡したりする。
結果、口を開いているのは親だけで、会話が成り立たないまま、用事は済んでしまう。

さらに進んで、一対一の会話の最中に相槌を打たない。
うなずいたり、首を傾げたり、そういうしぐさもあまり見せない。
「聞いてるか?」と尋ねても、「うん」というそぶりが見えない。
自分のやっている作業の手を止めるとか、顔を上げて相手の顔を見ながら話を聞くとか、要するに「あなたと会話しています」という表現がまったく見えないことがある。別に「悪意があって」とか「相手に反抗して」というのでなくて、ただ本当に話を聞いているということの表現がとてもとても乏しい。
当人に悪意はなくても、話しかけているほうは、相手から「聞いています」の表現が受け取れないと、とても気分が悪い。
石の地蔵さんにでも説教をたれているような、無力感が漂ってしまう。

ゲンの場合は、たまたま「自分のやりたいことに没頭していて」とか「自分に都合の悪い話題を避けようとして」とか、都合の良い意図があっての「無反応」であることが多いが、時には目の前で話している人の言葉をまるで一方的にしゃべるTVの声を視聴するようにただ聞き流して、それを「会話している」と勘違いしている場面もよく見かける。
相手の無反応にイライラして「わかった?」「聞いてる?」と何度も相槌を求めたりするが、子どもたちはまったく悪意もなく、人の言葉を聞き流す。
一通りの内容を話し終えて、「分かったね?いいね?」と念を押して、とりあえずその話は終わらせてしまうが、それでも、しっかり話を伝えたという実感が持てない。「うん」という確認の表現が省略されるからだ。

先日話題になったドラマに、「ハイ」という言葉をとても美しく使う女の子が登場した。父に呼ばれて「ハイ」。話の途中の相槌にも「ハイ」。承諾や納得の意味にも「ハイ」
あまりに素直な少女の笑顔が痛々しく感じるほど律儀な「ハイ」の繰り返しに違和感を感じている自分に気がついた。
考えてみれば当たり前の「ハイ」という言葉があんなに新鮮に美しい言葉に聞こえたのは、日常生活の中で使われるいろいろな意味での「ハイ」という言葉が、どんどん省略されてしまっていることの裏返しなのかもしれない。

大人の方でも、だんだんに子どものそうした「無反応」になれてきて、いちいち返事や反応を求めなくなってきてしまってはいないか。
「○○ちゃん」
「・・・」
「新聞とってきて」
「・・・」
相手からの返事がまったく発せられなくても、とりあえず相手が立っていって新聞をぽいと手渡してくれさえすれば「ありがと」と用は済んだとおわりにする。
そんな小さな一こまの積み重ねが、しっかり相手の目を見て話をしない、返事をしない、相槌を打たないという石の地蔵さんのような子どもを育てているのではないだろうか。
そういう大人の側の反省もあって、とりあえずしばらくはゲンを叱る。

しゃべり始めたばかりの幼児の名前を呼ぶ。
「はあい」と小さな手を上げてお返事をする。
あの愛らしい最初の言葉の学習は、自分のほかに誰かがいて、その人と関係を持つためには「はあい」と声に出すんだよという、コミニュケーションの始まりを学ぶことだ。
幼稚園に入園して、新しい名札のお名前を先生がニコニコと笑いながら呼んでくれる時、「はい」と返事することが集団生活の最初の学びの課題になる。
日常の何気ない会話の中でも、「はい」という返事、「聞こえてるよ」ということを相手に伝えるしぐさや態度、会話する相手に心を向けるという気持ちは、人間関係の中の大事なルール。
「大きくなったから省略していい」ということでもないようだ。
とりあえず用が済んだらそれでよしと、「無反応」に慣れきってしまってはいけない。
「お返事は?」
「聞いてるの?」
「判ったの?」
しばらくはうるさがられても、しつこく返事があるまで繰り返してみよう。

と、ここまで書いたところで別のお話。
忙しい時間にたびたびかかってくる家庭教師や互助会の勧誘電話。
そのたびに断るのがうっと惜しくなってきたので、新しい作戦を考えた。
会話の途中でそれが勧誘電話であることがわかったら、そこから一切の返事や相槌を止める。
ただただ、しゃべり続ける相手の声を聞きながら、まったく声を出さない。
「もしもし?聞こえてます?」
と聞かれても、答えない。
時には受話器を上げたまま、その場を離れてしまう。
相手からの反応がないことに気がつくとそのうちあきらめて電話を切るようだ。
ここで意外だったのは、こちらの反応がまったくなくてもああいう電話の主は驚くほど長いこと一人で滔々としゃべり続けていることだ。
「・・・・ですよね?」
と疑問形で話している時でさえ、こちらの相槌や返事がなくても澱みなく次の話題をしゃべり続ける事が出来るようだ。
「会話」が成り立っても成り立たなくても支障がない、一方的なセールストークの無意味さがこんなところにあらわれるのだなぁと気がついた。

相槌も返事もしない子どもの無反応に慣れ、一方的な「会話」を仕方がないと見逃していくことは、こういう無意味なセールス電話と同じ穴に落ちることだ。
それがいまどきの当たり前と笑って済ませられるほど、私はまだ「無反応」に慣らされてはいない。
そして子ども達にも、「なんか、変」と思える感覚を残しておいて貰いたいと思う。


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