月の輪通信 日々の想い
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2004年04月13日(火) ボールを投げる

私は幼い頃からボール遊びが苦手だ。
自分の手を離れたボールが手の届かない茂みにはいりこんでしまいはせぬか、水に落ちて流れていってしまいはせぬか、そんな怖れがいつもどこかに漂っていて、思うように遠くに投げることが出来ない。
それから私は飼い犬の引き綱を決して離したことがない。
離した途端、矢のように駆け出した愛犬が二度と戻って来ないのではないかと言う不安から、引き綱を思いっきり長くしながらも決してその端を離すことがない。
大事なもの、愛しいものをいつでも呼び戻せる場所にとどめておきたい。
私は臆病で貪欲な人間である。

昨日の日記について、BBSで真摯な感想を頂いた。
・・・子供が命を賭けて未知の危険に挑んでいこうとするときに、親がその決意の芽を摘むのは親のエゴである。子供が自分の意思で道を開いていくのを妨害してはいけない。・・・
広い世界に大いに羽ばたいていってもらいたいと願いつつ、なかなかその手綱を緩めることの出来ない臆病な母親である私には、とても痛い言葉であった。
今はまだ幼い我が家の子供達が、あと数年もすればこの方と同じ言葉で母の躊躇をなじる日が来ることもよく分かっている。
かつては自分の体の一部ですらあった子供達が、いつか自分の足で立つようになり、一人で園バスに乗り込んでいき、母の知らない人と出会い、母の知らない夢を描くようになる、その不思議。
親の「子離れ」の過程は、子の「親離れ」よりはるかにエネルギーがいるということが、母になって初めて実感として分かった気がする。

その実感の上にたって、再び想う。
子供達が、自分のなし得なかった夢や自分で持つことの出来なかった能力をかなえていく姿は親にとってすばらしい喜びである。
臆病な自分が出来なかった崇高な決意、狭量な自分が抱くことの出来なかった愛を子供達が勇敢にも成し遂げようとするとき、母は我が子を誇りに思うことだろう。
口では支離滅裂な泣き言を喚きながら、それでも最後は我が子の決断を認めて、涙をのんで送り出すより仕方がないのかもしれない。
ただ、その時の親は、子供の決断が実ったときの喜びとともに、それが実らなかったときの失望や愛するものを失う悲しみまでも、子供達とともに背負う覚悟を決めておかなくてはならないと私は思う。

ボールを遠くまで投げるのなら、それを自分の足で拾いにいくだけの力を持たなくてはならない。
有能な子供を育てその意志を尊重して旅立ちを見送るためには、その高い理想の結果として降り注ぐ喜びも怖れも余さず引き受けるだけの器量が、親にも必要となる。
子供が最後まで自分の意志を通そうと踏ん張っているときに、親は決して取り乱して泣いていてはいけないのだ。
伸ばした手綱の先で子供が力強く羽ばたけば羽ばたくほど、見守る親にも強い意志と覚悟が試される。

自らの意志を持ち、振り返りもせずに飛び立っていこうとする子供らの一部始終をいつも笑顔で見守って行くのには大変なエネルギーがいる。
その意味で、今の私は子供達の決断を取り乱すことなく受け入れる器量をまだまだ持ち合わせていないように思う。
子供達が自分の翼で親元を飛び立っていくまでのあと数年。
母の成長は、子供達の巣立ちの日に間に合わせることが出来るだろうか。


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