月の輪通信 日々の想い
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2004年03月14日(日) 家族の距離

女の子2人を連れて実家のひいばあちゃんの一周忌に出かけた。
大きな荷物を抱えて帰宅の電車を降りると、迎えに来てくれた父さんの車の中にほのかなカレーの匂い。
「帰りが遅くなるかもしれないから、夜は男の子軍団でカレーを作ってね。ご飯も忘れず炊いておいてよ。」と材料を買い揃えて言い残しておいた。
奮闘の様がうかがわれますな。
よしよしと、期待十分でうちに入る。

男の子カレーは絶品だった。
頼んでおいた洗濯物も、とりあえず物干しにはぶら下げて、夕方には取り込んでおいてくれた模様。
汚れ放題で投げ出されたざるやおなべ、丸めてしわくちゃのまま生乾きで取り込まれたトランクスを考慮しても、男達の家事能力はそこそこ及第点といえるだろう。
外から帰って、暖かい夕餉の香りがするということだけでも、主婦の日常には嬉しい楽しい出来事なのだということを、父さんと子供達に伝えておきたいと思う。

「あれ?コタツ、どうしたの?」
居間においてあるいつもの長方形のコタツが壁際に立てかけられ、新婚時代に父さんと使っていた小さな正方形のコタツが置いてある。
「こわれたみたいやねん。ちっとも暖かくならないねん」
以前からコードの接触が悪かったりサーモスタットが不調だったりして、あやしかったコタツではある。
冷蔵庫、洗濯機、電子レンジと来て我が家の家電買い替えラッシュも終盤かと思われてきた今、この春も間近というこの時期にコタツが昇天されるとは予想外だった。
「ま、しょうがないね、」と90センチ角の小さなコタツに6人がごそごそと足を入れる。
法事のお下がりのお菓子でもいただこうと、机の上に広げると子供らがわっと顔を寄せる。
「うわぁ、人口密度めちゃくちゃ高いわぁ!」
いつもと違う家族の距離感が驚きだった。
コタツが小さくなったというだけで、誰かと誰かの息遣いの触れ合う距離感が違う。
なんだかちょっと嬉しくて、いつもより余計に暖かかった。

家が狭くて、子供達に自分だけの空間を与えることができない。
小学生(中学生)になったら、子供がひとりになれる空間を確保してやりたい。
家の空間を考えるとき、必ず話題となるこの言葉。
確かに、子供達は大きくなると誰かに邪魔されない自分のスペース、一人で閉じこもってしまえる個室のドアを欲しがる。
それはそれで当たり前のこと。
大人だって、ひとりになれる書斎が欲しい、趣味を楽しめる個室が欲しい。
家族の中で自分が個になれるスペースはいつも家族の憧れだ。
けれども今日の小さなコタツのように、いやおうなく家族が寄り添える空間、いやでも誰かのため息や空腹のおなかの音を捉えることのできる空間を求めることはめったにない。
でも、特に子育て中のうちには時にはこんなおしくら饅頭のような窮屈な憩いって必要だったのだなと気がつく。

子育てが一段落したので働きに出て、妻でも母でもない自分を生きられる場所を確保したい。
父さん母さんに干渉されない、プライベートな空間に閉じこもりたい。
大人不在の時間の長い友達のうちがうらやましい。
大人も子供も自分が「個」「孤」になれる時間を切望する。

でも、家族というのはそれだけではないのだ。
プライベートな部分にずかずか踏み込んで、間違いを正す言葉。
互いのプライドをかなぐり捨てて、自分の激しい想いや訴えを吐き出す時間。
誰かの息遣いに自分の呼吸を合わせてみられる密着した距離感。
一見うっとおしく感じるような密着感が、まだまだ家族には必要なのだ。
子供が身の回りにいることの幸せの一つは、このうっとおしくも暖かい異常な密着感にもあるのだということを、改めてもう一度考えてみたいと思う。


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