月の輪通信 日々の想い
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この間から続いていた水道工事が終わって、うちの前の道に新しいアスファルトが敷かれた。 春のような暖かい日。 工房と自宅との間をパタパタ行き来して忙しく走り回っていたら、お隣の奥さんがうちとの共有の側溝のお掃除をしてくださっていた。 雨水を落とすだけの短い側溝なので、晴れの日続きで普段はあまり用を成していないのだけれど、道路の砂や落ち葉などがたまりやすくて、時々どちらか気が向いたほうがグレーチングをあげてお掃除をする。
急ぎの仕事が残っていたし、この前は確かうちがお掃除したから、ま、いいかと思って、 「いつもすみません、今日はちょっとお手伝いできなくって・・・」 と会釈して通り過ぎる。 「いいのよ、いいのよ。気まぐれでやってるんだから。」 お隣さんも気持ちよくおっしゃってくださったので、ごめんなさいってお願いしておいた。
夕方、再び外へ出ると、お隣のガレージにたくさんのレジ袋。 側溝からあげた砂や落ち葉を詰めておいてあるらしい。 「あ、悪いけど、お宅のほうにも少し袋、置いてあるのよ。ごめんねぇ。」 「いえいえ、お手伝いしなくてすみません。」 と別れたものの、はて、このレジ袋、どうしたもんかなぁ。
うちでは落ち葉のごみや剪定した木の枝などはまとめて、庭の裏の谷に捨てる。 裏の斜面に積もった落ち葉の上に、集めた落ち葉をどっと乗せてもしばらくするとぺしゃんと嵩が減って自然の腐葉土の山になる。 「山のものは山へ返す。」 そういって、工房の庭の落ち葉もほとんど近くの谷の斜面に運ぶ。 いつも私や義母が庭の落ち葉を捨てる斜面には、何年にも渡って積み上げたふかふかの腐葉土が層になっているはずだ。 ひと冬に山から降り注ぐ木の葉の量はとてつもなく嵩高いものだが、時を経て土に戻ると意外なくらい嵩が減る。 自然の営みというのは、たいしたもんだなぁといつも思う。
レジ袋に詰め込まれた落ち葉や砂は、燃えないごみに出すのだろうか。 う〜ん、こんなにたくさん持って帰ってくれるだろうか。 砂もいっぱい混じっているし。 大体私は、砂や木の葉は「ごみ」という認識がない。 「山のものは山のもの。」 山にお返ししてもいいじゃないの。 しばらく考えて、うちのほうに置いてあった5個ほどの袋の中身を、裏の斜面にざざっとあけた。 その中身のほとんどは「山のもの」 もとの地面になじんで、すぐに見分けがつかなくなる。 空のレジ袋をくるくるまとめてポイと捨てる。 「ごみの少量化」完了。
問題はお隣にある10個ほどのレジ袋。 ついでにそれも引き取ってきて捨てておいたほうがいいのかなぁ。 燃えるごみに出しても、おいていかれるだろうしなぁ。 だからって、お隣の敷地に入って勝手にとってくるのもなぁ・・・。 いじいじと考えながら、出入りのたびにお隣のガレージのレジ袋を横目で確認する。 なんだか落ち着かない。 いつまでも気にかかる。 なんとなく気持ちが悪い。
今朝のごみ収集日。 お隣はあのレジ袋をひとつもごみには出さなかった。 今もまだ、白いレジ袋がお地蔵さんのようにガレージのふちに並んでいる。 う〜ん、どうしたもんかなぁ。 やっぱり片付けてきたほうがいいのかなぁ。 気持ちのいいお隣さんで、別に何の問題もないのだけれど、こういうちょっとした意識の違いってなかなか言い出せなくて、うっとおしい。 主婦の悩みって、ささやかで奥深い。 さあ、どうしましょう。
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