月の輪通信 日々の想い
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2004年02月14日(土) 赤信号を渡らない

うちのオニイは生真面目な男である。
うっかり、ぼんやりは多いし、母譲りのずぼらがしみついてはいるが、
基本的には真面目な気配りの男である。
「茶髪、ガングロの女は好きにはならん」
といまだに公言している。(もう、死語だってば、ガングロ・・・)
20歳になるまで絶対アルコールは口にしないそうである。
タバコも一生吸わないつもりなのだそうだ。
校則はきっちり守る。
レインコートがだめといわれれば、自転車片手運転になってもかさをさしていく。(余計あぶないってば。)
手袋もだめといわれて、寒空に指ががちがちに凍りそうになっても手袋なしで自転車を飛ばしていった。(「手袋禁止」はオニイの勘違いで、使用してもいいことが後でわかった。「そんなあほな規則があるなら、自転車のハンドルに軍手を縫い付けてやる」と母が吠えたので、勘違いに気がついた。)

「僕は一生、赤信号は渡らない。」
少年の潔癖さで、オニイは「一生」という言葉で未来の自分の生活を縛る。
車がめったに通らない横断歩道でも、大また3歩で渡れる路地でも、オニイは律儀に足を止める。そして、まっすぐに赤信号を見つめ、周りの大人がどんどん追い越して渡って行ってもあわてない、釣られない、流されない。
「まだまだ青いなぁ」と息子の正義感を片方で笑いながら、この子は将来生き難い選択肢をわざわざ選んでいくかもなぁとため息をつく。

「日本人が赤信号を渡らないのは自分の判断に自信を持てないからだ。」
と、サッカーの某監督さんがいわれたそうだ。
確かに街に出ると、車の来そうにない短い横断歩道でイライラ青信号を待っているのは間が抜けている。
安全の基準を機械の信号の判断に任せ、従順に立ち止まる。
周りの様子を伺って「渡っちゃおうかな」「渡っちゃだめかな。」と葛藤するのもなんとなく居心地が悪い。
自己責任で「それでも私は渡るのよ。」と決然と赤信号で横断していく人が、
妙に凛々しく見えてしまうこともある。
誰かの決断に追随して、「みんなで渡れば・・・」となんとなく一緒に横断し始めるのも体裁が悪い。
そんな優柔不断な「自己責任」にオニイの青さが、妙に苦い。

先日、昔NHKの幼児番組で長い間親しまれていたノッポさんの講演をTVで見た。
「私は決して、赤信号では渡らない。
小さい人たちは、年齢を重ねた今の私よりずっとずっと賢い。
だから私は小さい人たちと話をするとき、最大限の権威を持って話すのだ。
『赤信号では渡らない』と小さい人に言うとき、
『人が見てなかったらいいかな』『車が来ないからいいかな』といういい加減な気持ちでは、話すことができない。
だから私は絶対に赤信号では渡らないのだ。」
子どもの事を必ず「小さい人」と呼ぶノッポさんの誠実なお人柄もさることながら、「生涯、決して」と自分の正義を貫く厳格さに衝撃を受けた。
70歳の年齢を重ねて、それでも少年のごとき決然たる正義を公言できるノッポさんの強さ。
それはすっきりと潔く、凛々しい強さだった。

果たして、オニイの青臭い正義感はいったい何歳まで残っているのだろう。
少年から大人へ、挫折や矛盾をいくつも乗り越えて、
人は「建前と本音」という都合のいい術を身につける。
それを成長とか、成熟とか呼ぶのだろうか。
「老」という文字を冠にする方の少年のような正義感を
「かっこ悪い」と笑うことのできない母は、
オニイが「赤信号を迷いつつ渡ってしまう」普通の大人に成長していくのを黙って見守っていくのだろうか。








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