月の輪通信 日々の想い
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朝、アプコと一緒に近所の一人暮らしのお年寄りHさんの家を尋ねた。
父さんの地域でのお仕事の代行で、歳末の手当をお渡しして、ハンコをもらってくる。
それだけの事なんだけれど・・・。
父さんはここ数日、何度もHさんを訪ねているのだが、ドアをノックしても、大きな声で呼んでも なかなかドアを開けてもらえない。
電話もしてみたが、すぐに切られてしまう。
男の人の声だから、警戒して答えてくれないのかもと、私が交代して言ってみたが、やはり応 答がない。
中でTVの音がしている。
数日前には生ゴミも出ていたし、すぐ前の道でひなたぼっこしておられる姿も目撃した。
だから心配をすることはない。
Hさんは耳が遠いのだ。
この前訪ねた時には、それでもノックの音はよく聞こえて、たくさん世間話をして帰ってきた。
近くで話すぶんには、ことさら聞こえの不自由はなくて、普通におしゃべりできたのに。
近所の人の話では、最近、Hさんのお宅のTVの音声がよく聞こえてくるようになったという。
大好きなTVの音声が聞き取りにくくなって、少しづつボリュームを上げるうち、外に漏れ聞こえ るほどの音量になってきたのだろう。
おそらく、Hさん自身は我が家のTVの音量が外に漏れるほど大きくなっていることには気付い ておられないのだろう。
外からのノックや呼びかける声にも応えられなくなっていることにも、多分Hさんは気付いてい ない。
「老い」と言うのは、そんなふうに、本人の気付かないうちに、外側から静かに歩み寄る。
「いま、とんとんって歩く音がしたよ。」
一緒についていったアプコの耳には、薄い木のドアを隔てても、Hさんが室内で歩く音や咳をす る音が聞こえる。
こんな近い距離にいるのに、私やアプコの呼ぶ声はHさんには届かない。
週に数時間、ヘルパーさんや近所の人とわずかな言葉を交わすだけで、あとはTVの声だけが 楽しみと言うHさん。
たまに、私や子ども達が顔を出すと、「すんまへんなぁ」と言いながら、長々とおしゃべりするの を楽しんでいらっしゃったのに。
「Hさん!Hさん!」
あと、一回だけ、と、何度もドアをノックする。
「老い」という厚い障壁に隔てられて、私の声はHさんに聞こえない。
もどかし想いで、Hさんの家を後にした。
クリスマス。
昨日、おじいちゃんに「トナカイはなんて啼くの?」と聞かれて、アプコは「シャンシャンシャンっ てなくの」と答えたそうだ。
それは鈴の音でしょう。
アプコの耳には聞こえるサンタの橇の鈴の音。
今夜、Hさんの耳には聞こえたのだろうか。
明日、また行って、今日より大きな声で呼んでみよう。
「Hさん、お届け物ですよ。」
ハンコ、ください。
一日遅れの素人サンタには、ハンコが要るのです。
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