月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
この間、新聞折り込みのタウン誌で、子どものお手伝いについての記事があった。
家族の中での自分の役割を意識させ、自立心や社会性を養うためにも、子どもの発達に応じ たお手伝いをさせることが大切。
上手に誉めて、子どもの意欲を尊重して・・・。
いちいちごもっとも。
もっともすぎて居心地悪い。
何なんだろう、この違和感。
そういえば記事には「お手伝いは親の仕事量を減らす為という意識では結果的に自分のイライ ラにつながり、子どもがついてこない」とある。
そうかなぁ。
「親の仕事量を減らして上げられた!」という実感こそが子どもの意欲を産むのだけれど・・・。
記事の後半では最近あちこちでよく耳にする「台所育児」が紹介してあった。
NHKの子ども料理番組で有名な料理家が提唱している育児法とのこと。
「1歳から包丁を持たせよう。」
「興味を持ったときがチャンス」
「うまく出来たらしっかり誉めて・・・」
包丁や火の扱いを幼いうちから教えて、食を通じて、子どもの意欲や社会性を養おうという試 み。
近頃では「台所育児」用のレシピやらおこさま向きの調理用具なども市販されていて、結構流 行ってるんだそうだ。
でも私「台所育児」って言葉、なんか嫌い。
薄気味悪くて、嘘臭い。
「初めての台所育児にこんなレシピはいかが?」と紹介されているメニュー。
「エノキダケの簡単炒め物」
(エノキダケの石突きを落としてざくざく切りフライパンで炒めて味付け。)
切る時の独特の感触や炒める時の音や香りで子ども達には料理をしたという達成感が感じら れるのだそうだ。
そして、「しっかり誉め、『おいしいわ、ありがとう』と言葉をかけること。」
ダメだ、私にはできそうにない。
お子さまレシピでこしらえた中途半端なお子さま料理に「おいしいわ」とサービストークで褒めて 有り難がる芝居気は私にはない。
第一、幼い子どもでさえ、母が心から「おいしいわ」と言っているのと、サービストークで「助かっ たわ」といっているのはちゃんとかぎ分ける。
我が家では子ども達がしょっちゅうお料理をするので、時々「台所育児?」って
言われることがある。
とんでもない、母が楽をしたいから、交代要員を養成してるだけなんです。
育児しているなんて、大上段にたたれると、しっかりズボラ母の手間を省いてくれるようになっ た子ども達に申し訳が立たない。
幼いアプコがアユコと一緒にホットケーキを焼く。卵を割るのは楽しいし、粉をこねこね混ぜる のは魅力的だ。
ぺたんと裏返しするのも上手になって、「ほらほら、見て!」と得意げに皆に見せる。
これを我が家では調理とは言わない。
強いて言えば「リアルままごと」
皆でおいしいおいしいと食べるけれど、これはあくまでアプコの「お遊び」とのおつきあい。
忙しくて昼食準備の間に合わない母に替わって、ゲンがホットプレートで焼きそばを作る。
バタバタと帰ってきた母が食べる、父が食べる、兄弟が食べる。
いつもお味なので誰も格別「おいしい」と褒める訳ではないけれど、「忙しかったから助かった わ。後かたづけもお願いね。」と父母は再び仕事に戻る。
これは、我が家では立派な「お仕事」
自分で調理する楽しみのための「遊びの料理」と誰かに食べさせるための「仕事としての料理」 は、私も子ども達も明らかに別の物として意識しているように思う。
だからこそ、「おままごと」と「おしごと」を一緒くたにして「しつけ」の教材にし、あわよくば親の手 間減らしも・・・と目論む母親の欲深さが垣間見られて、なんとなく気味悪く感じてしまうのだろ う。
誰かのためにおいしい物を作る作業は楽しい。
忙しいときに子ども達が夕ご飯を作ってくれるととっても助かる。
それで、いいじゃん。
「育児」なんて看板を上げると、お料理に嘘が混じる。
そんな気がするんだけど・・・
|