Food for Thought
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2007年06月12日(火) 裸の王子

ハンカチ王子に引き続き、ハニカミ王子こと石川遼選手(15)に対する騒ぎで、日本人の「こわさ」を再確認する思いだ。私も表彰式で涙を流す姿をニュースで見て「おお、初々しい」と思ったが、翌日以降、「王子」呼ばわりされて異常な盛り上がりになっているのを見て、本能的に(?)引いた。

セブン&アイホールディングスの鈴木敏文会長が、日経の私の履歴書の中で書いていたが、最近の日本人の消費は「富士山型」から「茶筒型」になったそうだ。多様化の時代というのはウソで、日本ほど画一化なところはないと。ある物が良いとなると、みんなでワッとそれに集中する(納豆がいいとか)。そういうものが出ては消えるので、一見多様化しているように見えるだけだと。

『醜い日本の私』では中島義道氏が

どのテレビ局も、どの番組も、どのコメンテーターも、ただただ[ハンカチ王子が]「理想的青年」とか「息子にしたい」とか褒め上げるだけ。私が見聞した限りでは、彼に関するただの一つのマイナス評価もなかった。たとえどんなによいことでも、人々の声が一律になってしまったら、用心しなければならないと思う。そのことをわれわれは歴史からうんざりするほど学んできたはずである。
こうした点から見る限り、現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける[イラク日本人人質事件など?]。同じ人に対して同じように賞賛する。そして、そのあげく魔女狩りにユダヤ人狩りに加担してしまい、ずっとあとで「だまされていた」と胸をたたいて嘆いても、それは狡いというものである。みんなと同じ言葉を使うことに酔いしれていただけで、それにわずかにも批判眼をもたなかっただけで、立派な加害者なのだ!せめて、それだけでも認めるべきであるのに、「弱者」という名の善人(オルテガの言葉を使えば「大衆」)はそれさえ認めない。


と言っている。

水村美苗・辻邦生著『手紙 栞を添えて』では、辻邦生氏が

…こうした言葉の氾濫は、その中にいると全く感じられない。その暴力性も、閉鎖性も。一度日本の外に出てみると、はじめて、目も耳も口もふさがれ、一億一心で同じことを言っていたと気づきます。
一人で考え、感じていたと思っていても、それは集合的な日本人の心性・習慣をただなぞっていたにすぎなかった―


たしかユダヤの律法だったか、「全会一致の決定は無効」というのをきいたことがある。そんな状態は何かがおかしいはずという知恵からだとか。




駿馬 |MAIL

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