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2011年05月21日(土) 『イニエスタEPSインタビューPart.2』


#La Roja
#Iniesta
 イニエスタ「ぼくは自分がどこから来たかわかっている」@EPSインタビューPart.2
   22:50:09, 水曜日 18, 5月 2011



イニエスタの記事の続編です。私が参考にした英語訳(二種類)と原文を比較すると若干ニュアンスが違う(イニエスタの台詞のはずが三人称の文章になっていたり…)のですが、そのへんは大目に見てやってください。

***


バルセロナへの旅は地獄だった。ダークブルーのフォード・オリオン――彼が自分の人生を変える決断を下す旅でも乗っていたのと同じ車――の中で、彼はこの道が自分をこんなにも遠くまで連れていくとは想像もしていなかった。ダークブルーのオリオンの中で、バルセロナへの旅の間、両親と、母方の祖父と、フットボール選手になることを夢みる少年が泣きやむことはなかった。
「ぼくたちは食事のためにトルトサで休憩した。誰も食べなかった。母は泣いていて、父は食欲がなかった。祖父はぼくを励まそうとしてくれたけど、ぼくも食べられなかった。食べ物を見ることさえできなかった。ぼくの記憶にある、ラ・マシアの最初のイメージは責任者のジョアン・ファレスだ。彼は190センチもある下部組織のGK、ホセを紹介してくれて、施設を案内してくれたよ。彼を見上げて、ぼくはmadre mia!瓩隼廚辰討い拭それから夕食を食べ始めて、ぼくは相変わらず泣いていた。翌朝学校へ行く時、両親はぼくを学校へ連れていき、こう言った。『おまえが出てくるまで、ここで待っているから』ぼくが出てきた時、両親はもう去っていた。それが、悲嘆を長引かせない最善のの方法だったんだ。それからもぼくは泣き続けたが、もし彼らがそこに残っていたら、もっと酷かっただろうね」

このような、さよならを伴わない別れは二週間おきに繰り返された。彼の両親は土曜日に子どもに会いにやって来て、日曜の夜にラ・マシアを去った。彼には『明日、学校に送るために戻ってくるから』と言ったが、翌朝は一人で学校へ行くことになるだろう、とアンドレスにはわかっていた。両親が訪れなかった週末は、ベナイゲスが彼を自分の家へ連れていき、日曜の夜まで、映画やフットボールの試合を見せて元気を与えようとした。そして、アンドレスはまた泣き始めた。なぜなら、すでに友人関係にあるティーンネイジャーたち――この中にはヴィクトル・ヴァルデスもいた――に囲まれ、ひとりぼっちだと感じている子どもだったから。

「最近のラ・マシアにはとても小さな子どもたちが大勢いるが、あの頃は、本当に子どもだったのはぼくとトロイテイロだけだった。ヴィクトルはぼくたちの面倒をよく見てくれたよ。彼は素晴らしく振舞ってくれた。トロテイロはとてもいい子だったけど、自分たちではどうにもできない状況がたくさんあったんだ。皆それぞれの歴史を持っていて、それぞれの事情を抱えていた。彼はバルセロナでプレーするという夢を追うことはなかったけど、いまもまだフットボール界の住人だ(現在、ブルゴスに在籍)」
「イニエスタの精神力は強かった」とベナイゲスは言う。「私は大勢の非常に才能ある選手たちと出会ってきたが、ラ・マシアで2週間と堪え切れなかった19歳の少年を始め、誰もが家をとても恋しがる。アンドレスは彼のテクニックとインテリジェンスゆえに、バルサにとって完璧だった――今日、彼は子どもの頃の彼と同じようにプレーしている。だが、私なら耐えらえたかわからない。彼は自分の頭脳(精神力)によって耐え切れたんだ。適応し、成功した」

そう遠くない昔、クラブにはこの選手に対する疑念があった。サポーターたちの間にも。彼は、セスク、メッシ、ピケら黄金世代の一員でもなければ、タイトルを数々獲得したロレンソ・セラ・フェレールやファン・ハールのような影響力のある監督に恵まれたわけでも、またライカールトがしばしば彼をベンチに座らせていた間、ファンの愛情に恵まれていたわけでもない。度重なる怪我や少ない出場機会にもかかわらず、彼は生き延びた。それは彼がなんとか夢を見続けたからであり、またフィジオたち、ラウル・マルティネスやエミリ・リカルトのような、彼のキャリアに多大な影響を与えた人々のおかげでもある。

彼がこれまで、決定的瞬間に恵まれていたことは特筆すべきことだ。しかしグアルディオラいわく、バルセロナをローマでのCL決勝に連れていくことになったスタンフォード・ブリッジでのゴールを彼が決めたのは、その右足に全世界のバルセロニスモが託されたからだという。
「おそらく誰もが、素晴らしいことは起こり得るんだ、と感じるためにあのような特別な瞬間を必要としているんだ」

時に、彼は何かを感じる。それはピッチの中でも外でも起こる。彼はW杯決勝のゴールも予感した。このW杯がスペインのためのものになるだろうと、彼は知っていた。確信していたのだ。それは監督にとって、選手たちにとって、犧か、さもなくば永遠にであり、今度こそ自分たちの番だと、彼にはわかっていた。シーズン中は、自分のフォームを再び取り戻し、さらにステップアップすることはもうできないのではと感じる、辛い時期を過ごした。「だけど最後には、再びフットボール選手に戻ったように感じた。再び幸せになった。W杯は、個人レベルではひどかった年から、ぼくを解放してくれた。栄光の数分間を手に入れるためにとても苦しんだよ」
彼は、あのゴールを決めた最後の栄光の数分間を手に入れるために多くの苦しみを味わった。あのゴールが、さらに良い選手になるため、自信を得るため、そして続けていくための変化を彼にもたらす助けとなった。



アンドレス・イニエスタは現在、国民的英雄であり、バルセロナの永久的な財産であり、スタンフォード・ブリッジとヨハネスブルグのゴールを携えたセレブリティであり、世界における最高のスペイン大使だ。「何よりも優遇されていると感じるのは、世界中のファンから喝采を受ける時だ。たいていは、相手チームが負けている中で交代する時にね。つまりフットボールやその試合結果を飛び越えて、もっと価値ある物事というものが存在するということだ」

あなたはグローバル・プレーヤーのように感じているか?
「ぼくはフエンテアルビジャ出身だ。アルバセーテで生まれた。でも他の誰よりもカタラン人のように感じている。ここでは、アルバセーテよりも長く過ごしたし、ぼくのアイデンティティは二つの場所にある。ここで育ち、ぼくはとても幸運な人間だ――バルセロナとカタルーニャはぼくと家族にすべてを与えてくれた。ぼくたちは皆カタルーニャ出身のように感じている。ぼくは自分がどこにいて、どこから来たかわかっている」

スペインはあなたの国であり代表チームか?
「複雑なんだ。誰しも、話すのも感情を表現するのも自由だが、いつも他者へのリスペクトを持ってそうしなくてはならない。スペイン人、カタラン人、アンダルシア人と感じる前に、そこにはリスペクトが存在する。人は何かを考え、また別の人は違うことを考えるんだから、そこに衝突があるべきじゃない。ぼくたちは可能な限り最良の生き方をしようとしている」

バルセロナへの夢を追いかけた子どもは、フエンテアルビジャに彼の名にちなんだ通りを持ち、大勢の人々に仕事を与え、彼の家族に誇りを抱かせる140ヘクタールのぶどう農園を持っている。9月の最初の週、イニエスタ家は彼らにとって初めての収穫を迎え、そしてぶどうが多くの忍耐を要することを考えれば、イニエスタ以上に忍耐強い人物はいないので、それは良質なぶどうになるはずだ。
「父と兄たちは農場で働いている。以前は農園を持つことは難しかったけど、今はその余裕がある。ぼくたちは『イニエスタの道』(Carril de Iniesta)という農地を買った。というのも、フエンテアルビジャからクエンカにある村、イニエスタへ続く道が、農地の中を通ってるんだ。これは偶然だよ。でも、ぼくの土地に他にいい名前があるかい? 気に入ってる。学んでいるところだ。ぼくにとって、新しい世界さ」

彼はフットボールの世界を情熱を持って生きているシンプルな人間だ。いつも試合を、その試合が行われた夜に見ている。彼はテレビの前に、『Estopa』の二人の兄弟をはじめとする友人たちと一緒に座る。彼は“Como Camarón”を聴くのが好きだ。落ちついていて、インスピレーションを与えてくれるから。彼はフットボール・キャリアの傍ら、体育学と英語の個人レッスンに時間を費やす。いずれ、記者会見をカタラン語で行うだろう。だが目下のところ、彼の最大の関心はヴァレリア――彼とアンナの愛情から生まれた最初の子どもだ――にある。
「運命」彼は主張する。「ぼくはまたしても幸運だった……アンナが人生を与えてくれた。07年はタフな一年だった。悪い時期を過ごしていたが、彼女がぼくを奮い立たせてくれた。人として、彼女は百点満点なんだよ」


イニエスタは、歴史的にバルセロナのワーキング・クラスの地区であるサン・フストのシャレーで暮らしている。ご近所は『Estopa』のダヴィとマニュエルのムニョス兄弟だ。彼は市でも最も高級なペドラルベスの海岸沿いのマンション(豪邸)に住むことができる。だが2000年、初めてバルセロナと契約を交わした時、父親が財産の管理を一任し、息子には他の場所に家を買わせなかった。ヴァレリアと名付けた娘の父親になった今、彼は引っ越そうとしている。しかし、そう遠くへは行かない。

「誰もがそれぞれの幸せを、人々と共に生きるための生き方を探している。そしてぼくの幸せはこれだ。ぼくはこの自分で、これより良くも悪くもない自分で幸せだ。ぼくは自分の世界が好きだ。物事を静かに、最大限の楽しみを持って行うことが。時々、TVを見たり映画を見るのが好きだ」好きな俳優は?「デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウ。自分のことは言いふらすよりぼくだけの秘密にしておく。それがぼくの幸せであり、生き方だ。人々が抱いているぼくのイメージこそ、ぼくそのものだ。注目の的になるのは好きじゃない。時にはそうならざるをえないけど。自分の世界を楽しむのが好きだ。幸せではいられないようなことはたくさんある。個人として幸せを感じることはどんな勝利にも勝る。フィールドでどうプレーするかは、きみの人生がどんなものかを反映している」

彼は会話好きな人々の一員だ。「とても教養高い友人がいる。時には、なぜ多くの物事が起こっているかぼくにはわからない。オーストラリアの洪水や日本の地震のような自然災害……哀しい思いをさせられる。そうした恐ろしい出来事が引き続き起こっていることが哀しいよ。だけどその他のことも起こっている……エジプトで起こったことや、ガダフィに起こっていること……哀しい気持ちになるよ。子どもたちや女性が虐待されている時……非正義は好きじゃない」

時として彼は哀しむ。だが、怒りは稀だ。バロン・ドールを受賞しなかった時、あなたは怒ったか?「自分がバロン・ドールの最有力候補だなんてまったく考えていなかった」メッシが最高か?「ぼくたちにとっては、彼がベストだ。チームはメッシを必要としているが、メッシもまたチームを必要としている。ぼくたちはペップ・グアルディオラのような監督を持てて恵まれている。彼はすべてを知っている。バルサの下部組織の全段階を踏んでおり、他の誰とも違うようにフットボールを見ていて、ぼくたち皆を知っている。彼は、これほど多くのタイトルを獲得し、まだ勝ち続けることができるこのチームの重要な鍵だ。それにぼくはかつて彼のプレースタイルが好きだった。彼は今、シウダ・デポルティバでのトレーニングとコンセントレーションを最小限にするという判断によって、チームを本当に助けてくれている。というのも、そうすることでストレス・レベルを軽減させ、ぼくたちにより多くの平穏と良質な生活を与えてくれているから。監督は、ぼくたちの光だよ

アンドレス・イニエスタは、父親が3ヶ月間節約して彼に買い与えたブーツをまだ持っている。家に帰るとそれを見て、『ラ・ピスタ』や、アルバセーテを往復した旅のことを、ブルネーテ・トーナメントのことを、トルトサでの人生で一番哀しかった食事のことを、あるいはヴァルデスが与えてくれた猗鯑饅雖瓩里海箸鮖廚そ个垢里澄
「あのブーツを見ると、ぼくがどこからやって来たのかを思い出すんだ」彼は物静かに言った。これが、バルサのほとんどのスター選手たちの歴史はカッコ良すぎて鼻につく、などと主張する人々への返答だ。

少し運が良ければ、今度両親のもとを訪ねた時は、彼はチキンのポテト添えを食べるだろう。彼の妹も、彼の人生を変えた女性であるアンナも、その腕の中に彼らの娘――小さなヴァレリア――を抱いて夫と共にそこにいるだろう。そして、アンドレス・イニエスタは幸せな気分で、またしても夢が現実になったことに気がつくのだ。いつも息子のことを心配していた母親もまた、幸せだ。


***


この話は十代の子どもたちに読んでもらいたいですね。こうした困難を乗り越えて一端の選手になったというだけでもオチとして十分ですが、彼がW杯の決勝でゴールを決めたことを思うと、感極まるものがあります。両親との離別やハルケとの死別など、数々の困難を乗り越えて成功を手にしたイニエスタだからこそ、「運命を信じている」と言い切れるんでしょうね。

私、いつかタトゥを入れることになるなら、その言葉はnow or never瓠esta vez o nunca)だな! と思いました。何か決断を迫られた時にそれを見て勇気を絞り出します

コメントもこちらから。私が旅の途中で撮っただいたいが欧米の風景写真が表示されます(地味に交換してます)




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