てらさき雄介の日記
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2005年12月08日(木) 広田弘毅元総理の言葉

昨日久しぶりに早く帰ると、早速床に着き、本を読み始めました。一気に最後まで読み続け、結局寝たのは真夜中です。

読んだのは、城山三郎「落日燃ゆ」です。

元総理・外相の広田弘毅氏を主人公として、昭和の始め外交官になった頃から、東京裁判で絞首刑になるまでを描いたものです。

学生時代に広田氏と同郷(福岡)の友人が、この本の話をしていていたのを覚えており、ずっと気になっていました。

先日、本屋で並んでいるのを見て、購入したところです。

広田弘毅氏は、東京裁判がいかに理不尽な裁判であったかを、その死によって知らしめた方です。

総理大臣と外務大臣を務めたこともあり、私のような政治に携わっている人間ならば、皆彼についての見解を持っているでしょう。

文中の著者城山氏の表現を借りれば、‘大日本帝国の落日'はどこから始まったのでしょうか。

私は、
一、満州事変
一、日独伊三国軍事同盟
一、対米開戦
の3つが、日本の敗戦を決定的にしたと考えております。

歴史は時系列で見るべきですが、個々の事件もそれぞれ時代の象徴であって、ひとつひとつを検証することもまた必要です。

広田弘毅氏は、この3つのいずれにも毅然として反対しました。そのことをもって、私は以前から評価していますし、この本にも詳しく経過が書かれていました。

巣鴨プリズンに面会に来た家族に「この中で文官の誰かが死なねばならぬなら、その任は私が担わなくてはならないだろう」と、広田弘毅氏自身が語ったように、氏を絞首刑にしたのは、GHQ(アメリカ)の政治的意思によるものです。

また広田氏の姿勢を物語るものとして注目すべきは、南京での虐殺について、事件が起った段階で数度にわたり、外務大臣として陸軍大臣に抗議をしている事実があることです。

しかし一方で総理とは政治の最高指導者ですから、結果軍部の暴走を止められなかったことは、日本国民に対して負っている責任は大きいものがあります。

広田氏は東京裁判で一言もしゃべりませんでした。

「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた軍幹部が、他人に責任を擦り付けんが如き発言をしている中、黙々と死に向かう広田氏の姿勢は、同じ日本人として感じ入るものがあります。

そしてこの本で初めて知った広田弘毅氏の言葉は、とても印象的で感銘を受けました。

それは絞首刑が決まった後、面接に来た教戒師とのやり取りです。

教戒師「歌とか、詩とか、あるいは何か残すものはありませんか。」

広田氏「公の仕事をして以来、自分のしたことが残っていますから、今は何もありません。」

そして髪と爪のみ遺族に残し、他一切を語りませんでした。

先日、この日記で“生き様”に関連して、“辞世”云々言っていた自分を恥じ入るばかりです。

軽率でした。

政治家である以上遺書や辞世ではなく、世の中を残すことによって自己実現を図るべきです。

そのことを胸に刻んでくれた、広田氏と、著者城山氏に感謝します。

今現在まだ昼で、日記を書く時間ではありませんが、感動覚めやらぬうちにと思い、記しました。





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