てらさき雄介の日記
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2005年09月21日(水) 藤井裕久先生と その七

大分長くなりました。今しばらくお付き合い下さい。

長友義樹氏が市長選挙に立候補することにより、市議会に欠員が出ました。その穴を埋める市議会補欠選挙が行われることになったのです。

同じく市長選には県議2名も立候補したので、県議会の補欠選挙も行われ、3つの選挙が同時に行われたのです。

私に市議補選の話がきたのは、市議会会派“市政クラブ”の有志からお誘いを受けてのことです。何故私だったのか聞くと、他にアテにしていた人から全て断られ、正直誰もいなかったからとのこと。

欠員の原因をつくった長友義樹氏の側にいたため、たまたま目にとまったようです。

告示まで一週間ばかりです。大規模な補欠選挙で当選できるかどうか推測すらできませんが、何もない私にとってチャンスであったことから即断しました。

選挙戦がはじまり、藤井先生も何度か応援に来て頂きました。しかし市長選挙がメインであり、県議補選には新進党推薦候補も出ていたため、主眼はあくまでそちらです。

藤井先生が新進党県連会長だったこともあり、私のところにも県内新進党議員が応援に来てくれました。私のことなど知らなかったのでしょうが、以前藤井先生の事務所にいた人間が、無所属ながら立候補しているらしいとの話を聞いたのでしょう。

大概の皆さんはお顔出しを頂くだけでしたが、以前から親交のあった松沢成文代議士(当時)は、秘書を派遣下さるなど本気で支援頂きました。私と松沢成文現知事との関係は、また別の機会に書いてみます。

平成9年1月26日。当選し、25歳4ヶ月で市議となりました。もちろん嬉しかったですが、実感をもてる程の運動も出来なかったですし、市長選挙に長友氏が敗れたことの悔しさの方が大きかったです。

その後は藤井先生を支援する市議のひとりとして、以前とは違ったおつきあいが始まったのです。

新進党籍は持っていたのですが、市議になって数ヶ月で新進党は解党し、いくつかの政党に分裂しました。藤井先生は自由党を選び、その幹事長に就任しましたが、私は無所属になる道を選びました。

秘書をしていた伊藤達也代議士や、お世話になっていた松沢成文代議士が別の政党を選択したこともありますが、私は新進党を安易な理由で解党した小沢一郎氏を支持できなかったのです。ましてやその路線に純化していくのは、二大政党制の実現とは違う方向だと考えました。

ただ藤井先生の支援は、当然のように続けました。このことに矛盾は感じませんでした。

平成11年4月、統一地方選挙がありました。私にとっては2年半で2度目の選挙がやってきたのです。

藤井事務所からは、自由党の推薦なり公認なりが必要ならば、相談するとのお話を頂きました。しかし上に書いた理由で丁重にお断りしました。しかし藤井先生と事務所の皆さんは、色々な場面で選挙を支援して下さいました。

再選後は藤井裕久後援会副幹事長の職も頂き、藤井グループの執行メンバーのひとりになりました。

この次期、小沢一郎氏は自民党との連立を模索し、自自公連立政権が誕生しました。自民党と連立するという“元も子もない”行動に腹が立ち、藤井先生に対しても、これは誤りだという話をさせて頂きました。思えば藤井先生に対して、ここまではっきり意見を言ったのは初めてでした。

藤井先生からは「過渡期だ。」「それでも信念はまげない。」「いつでも連立政権を離脱する。」とのお話でした。

そして衆議院選挙が近くなってきたのです。もし仮にこのまま自自公連立政権で総選挙になった場合、私がどういう行動をとったのかわかりません。

私は既に参議院選挙をはじめとする、各種選挙で民主党の支援を行っており、むしろ藤井先生の支援が例外という状況になっていました。

非自民であるならば、それが何党であろうと、私のなかに矛盾はありません。しかし自民党と連立を組んでいる以上、自分の信条に対するどんな言い訳も通用しません。

しかし私の都合で言えば、運がよかったのでしょう。衆議院定数の削減問題で、自由党は連立を離脱したのです。だからこそ全力で、藤井先生を当選させなければと決意しました。

この連立からの離脱は凄いことです。小選挙区制のなかで少数政党として戦うことは非常に困難であり、ここでも改めて藤井先生の信念に感じ入りました。

事実自由党議員はこの時数十名いましたが、小選挙区で当選したのは小沢王国岩手県の3人と、他藤井先生のみだったのです。

この選挙も基本的には、与党自民党と野党民主党の対決でした。埋没しがちな状況のなかで、市内での個人人気を強調した選挙を行いました。また自由党という政党が得ていた、世間での一定の評価も支援に繋がりました。

僅差でしたが、藤井先生は4選を果たしました。私の支援者には、この選挙で知り合った方が多数います。それぞれが役割を果たし得た、内容の良い選挙でした。

さて今日まで7回にわたり、藤井先生との大切な思い出を書いてきました。その多くは、親しい方にも余り話したことはありません。何故話さなかったのでしょうか。改めて考えてみました。

ひとつは、そもそも過去の話をするのが好きでないことがあります。若い(?)のに思い出話はどうかと思います。

ふたつには、政治家同士に親分子分関係はあってはならない、という私の考えにあります。過去の関係を見れば、一般的に子分ではないかと思われることに抵抗もありました。

みっつめは、これから書いていくことです。藤井先生が自由党、私が民主党という時期が少なからずあったことです。このことによって少なからず周辺の誤解を招いたこともありましたが、同時に言い訳する必要もないと考えていたのです。

平成13年(2001年)春、小泉純一郎総理が誕生したとき、私は民主党に入党することを決意したのです。当時29歳です。

続く。次回最終回。


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