てらさき雄介の日記
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2005年09月20日(火) 藤井裕久先生と その六

大学卒業後、4月と5月はふらふらしていました。これからどうするかを、遅まきながら考えていたのです。

将来政治家を目指すことは、当然決めていました。地盤も看板もない私が、今とるべき選択肢は何かを考えていたのです。

やはり直接政治の現場に入ろうと思い至ったのは、5月も最後に近づいた頃です。

早速、秘書を探している議員はいないか、知人を辿りました。

過日書いたF秘書は、この時別の代議士の秘書をされてましたが、かの小沢一郎氏を紹介して下さいました。

何と、内諾は既に得ているとのこと。しかし小沢氏の秘書は慣例として、世田谷私邸での書生業と地元岩手での業務が必須とのことでした。

もう一方別のA氏は、藤井事務所でやはり仕事ができないか最後まであたって下さいました。これもうまくはいきませんでしたが、今でも感謝しております。

さて、私が国会議員を選ぶ条件を決めなくては、紹介も頼めません。

1,非自民であること
2,自宅から通えること(我が儘に聞こえるかもしれませんが、自分が立候補するのは相模原と決めていたので、地元に何も無い分、相模原に住み続けていたかったのです。)

結果として、当時日本新党の一年生議員である伊藤達也氏と出会い、以後2年半にわたるプロとしての秘書生活が始まったのです。

私の考え方や選挙のやり方、演説の仕方などについては、この間伊藤達也氏から大きく影響を受けることになります。この部分は、この文章の本題ではないので省きますが。

その後藤井先生の所属する新生党や、民社党・日本新党・公明党などが合併して、「新進党」が誕生しました。二大政党に向けた初めての試みです。

藤井先生は、新進党神奈川県連会長として引き続き活躍をされ、その姿は東京に通っていた私も映っていました。

小選挙区制度が正式に施行されました。旧神奈川3区は5つの選挙区に分割されましたが、藤井先生は相模原市一市で構成される新神奈川14区を選ばれました。

藤井先生が選挙に強かったのは、湘南方面だった記憶があったので、嬉しい反面不思議でもありました。何故相模原市だったのか、いつかそんな話を聞ける時もあるのでしょうか。

時は過ぎ、平成8年です。総選挙が行われました。初めての小選挙区選挙です。藤井先生の対立候補は、最近相模原にやってきた自民党若手とのこと。心配はしましたが、難なく当選されました。

伊藤達也代議士も二度目の当選を果たしました。開票日の夜、調布の選挙事務所から相模原の藤井事務所に電話をしました。相手は、学生時代から一緒に藤井事務所で学生秘書をしていた長友克洋現市議です。

彼の親族である、これも現市議の長友義樹氏が、来年一月の相模原市長選挙に立候補することが決まっていました。総選挙の結果を受けて、その見通しについて話をしたのです。

秘書の雇用は選挙が区切りです。伊藤代議士からは公設秘書のお話も頂きましたが、ここで区切ならないと次期総選挙まで勤めなくてはなりません。

年齢も25歳になり、相模原に対する思いが日々強くなっていた頃です。住んではいたが、言わばそれだけ。相模原のことを余り知らない自分に、焦りも感じていました。

同じく長友候補の市長選挙を手伝っていた友人から誘いを受けたこともあり、この市長選挙をきっかけに「相模原デビュー」をしようと決めました。早速長友義樹候補予定者に会うと、お手伝いする余地はあるとのこと。伊藤代議士とも話し、11月一杯で退職することになりました。

長友候補の必勝を信じてましたが、その後の身の振りを具体的に考えていたわけではありません。他からは安易との指摘もありましたが、こういう時は‘惹かれる’というのでしょうか。何の不安もありませんでした。

さて12月1日から、相模原市長選挙の手伝いが始まりました。長友候補は新進党総支部の幹事長だったので、当然藤井先生とは接触があります。

大変ご無沙していたので、この時期藤井先生が、私のことをどれだけ認識していたかは定かではありません。

しかし想定外のことが起こり、私と藤井先生は一蓮托生、同じ道を歩むことになるのです。

市長選挙と同時に行われる相模原市議会補欠選挙に、市議会会派“市政クラブ”の有志議員の推薦を頂き、立候補することになったのです。

時に平成9年1月、告示まで1週間の時でした。年齢は25歳4ヶ月です。

続く


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