てらさき雄介の日記
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2005年09月16日(金) |
藤井裕久先生と その三 |
佐川急便事件により、改めて政治と金の問題がクローズアップされました。金丸信元自民党副総裁の金庫から金塊が出るに及び、国民の政治不信は頂点に達しました。
政治と金の問題がきっかけではありましたが、冷戦崩壊や経済成長の終焉など、社会背景の変化も要因であったのでしょう。
さて昨日も書いた、私の政治スタンスを決定付けた政変のきっかけは、自民党内の派閥抗争でした。
藤井先生が所属した竹下派が、会長金丸信氏の起訴・議員辞職を経て分裂したのです。自民党最大派閥である竹下派の分裂抗争は、後に多く語られたように凄まじいものだったそうです。
藤井先生をはじめ小沢一郎氏のまわりに集まったメンバーは、領袖に羽田孜氏を据えたことにより、‘改革’を冠する派閥「改革フォーラム21」を結成しました。
最終的に竹下派内の抗争に、藤井先生たちは負けたのですが、仮に勝利していたら、私は藤井先生とは違った道を歩んでいたのかもしれません。
自民党本流であった竹下派が、果たして‘改革’を名乗る資格があったのか議論はわかれます。しかし時代の要請も受けて、その行動は世論注視の的になったのです。
さて藤井先生ですが、折りに触れ、小沢一郎氏を支持していると話は伺っていました。この時藤井先生の序列は決して高くなく、政局の中であまり目立つ存在ではありませんでした。
しかし一面でこんなこともありました。「改革フォーラム21」結成準備の段階で、大分出身のH代議士を藤井先生の車で、私が運転して宿舎まで送ったことがありました。
H代議士「一体どうなるんでしょうかね。」
藤井先生「わかりませんが、ただ行くところまで行くしかないかもしれませんね。」
派閥抗争がはじまった初期であり、政治改革法案はいまだ審議中、自民党からの離党などは、いまだ語れていない段階です。
H代議士は藤井先生よりも当選回数の多い議員でしたが、藤井先生に聞いたのは、恐らく当時より小沢氏側近として様々な相談を、藤井先生は受けていたのでしょう。
政治改革法案の審議が暗唱に乗り上げるに連れ、世論は法案に賛成する「改革フォーラム21」に、自民党からの離党を求めるようになります。
今思えば、メンバーは最後まで離党には慎重でありました。藤井先生をはじめとする一部を除いては、まさか本当に小沢氏などが離党に踏み切るとは思っていなかったようです。
法案否決後、宮沢内閣不信任案の採決が行われることになり、「改革フォーラム21」のメンバーは賛成する意向を固めました。
藤井先生は自分の行動を、余り人に語りません。時々随行した地元の会でも、政局絡みの話はしませんでした。地元支援者の皆さまは、ある意味物足りなかったかもしれません。
議員は本会議前に待機所を使います。通常は政党毎に割り振られる控室ですが、反逆することを決めた面々が、自民党控室を使えるわけもありません。結果藤井先生が就任していた大蔵委員長の、委員長室を使うことになりました。
議員会館の地下1階にあるこの部屋は、議員でも行く機会が少なく、案内係が必要ということで、私が部屋の前に立ちました。
しかしそれぞれ議員室もあったことから、あまり人数は来ずに、岡田克也氏をはじめ4〜5人をご案内し、事務員と一緒にお茶を出したの覚えています。
議員が本会議場に入った後、藤井先生の607号室に戻り、皆んなでテレビを見ました。
予想されていたよりも多くの議員が不信任案に賛成し、その中にはいわゆる‘守旧派'らしき人も含まれてました。山口敏夫氏が賛成票を入れるのを見たとき、「ああこの人もか。崩れる時はこんなものか。」そうはっきり思ったものです。
その後の対応としては、会長である羽田氏に離党届けを預け、一任となりました。しかしこの時点でもまだ、自民党離党の決断を全体でしていた訳ではありません。
私は自民党政治からの決別を、藤井先生に求めたかったですが、口を出せるはずもなく、強く心のなかで祈っていました。
そしてついに藤井先生はじめ、衆議院36名・参議院8名は、自民党を離党し「新生党」を結成したのです。
権力の側にいた者が、それを捨てて行動したのです。過去においても余り例のない、政治家の大いなる決断を目の当たりにし感動しました。
気がつけば、この歴史的瞬間に立ち会えることが嬉しく、ほぼ毎日議員会館に通うようになっていました。
自民党離党が決まった日、藤井先生が地元後援会長にする電話を取り次ぎました。
藤井先生「いやあ、ご覧の通りの状況になりました。引き続きよろしくお願いします。」
非自民党という選択肢があり得ることを、初めて実感しました。二大政党にいまだ考えは至っていませんでしたが、新しい政治勢力の一端に身をおけることが嬉しくてなりませんでした。
不信任案が可決されたことにより、宮沢総理は衆議院を解散しました。そして総選挙です。
これが私にとって初めての選挙運動です。学校も前期試験中でしたが、そんなことは気にもしませんでした。
平成5年(1993年)6月。いまだ大学4年生です。
続く
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