てらさき雄介の日記
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2005年09月17日(土) 藤井裕久先生と その四

かくして総選挙の火ぶたが切って落とされました。

藤井先生は新生党から立候補しました。他にも日本新党や新党さきがけなどが多くの候補者を擁立し、「新党ブーム」の選挙とも言われました。

しかし藤井先生はじめ、今まで自民党にいた候補者が、そこを飛び出したことによってどういう影響があるのか、推測することもまた困難でした

この選挙で私に課せられた任務は、藤井先生の運転手です。

当時はまだ中選挙区制度です。藤井先生が立候補した神奈川3区は、相模原・津久井・座間・大和・綾瀬・海老名・寒川・藤沢・茅ヶ崎で構成されてました。

それぞれの地区に事務所が設営され、それぞれに出陣式や事務所開きを行います。相模原市よりも選挙区が狭い現在と比較すると、かなり大変な作業でした。

この広大なエリア内を、毎日行き来するのです。そもそも車の運転が苦手なこともあり、とても大変でした。

ましてやスケジュールは分刻みです。遅れるものなら、現地に先回りしている秘書から「まだか、まだか。」の催促です。

さすがの藤井先生も、時として車で寝られたりもします。すると私にも睡魔が襲ってきて、あまり好きでない‘ユンケル系'を結構飲んだりしました。

当時藤井先生が演説などで主張していたのは、「ブームで新党をつくったのではない。長期政権は必ず腐敗する。自民党に変わる政党が必要なのだ。」

以来今日に至るまで、一貫して藤井先生が言い続けたことです。ポスターには「政権交代」の4文字が、既に入っていました。

今では少し陳腐に聞こえるときもある「政権交代」は、当時はまだ過激な表現でした。ポスター打ち合わせを端で聞きながら、私も少し衝撃を感じたものです。

思えば支援者や秘書の中には、自民党と敵対する選挙になったことについて、多くのとまどいがあったはずです。

一般の有権者の中にも、自民党を離党したからといって急に自民党を攻撃するのは不可思議だ、といった反応がなかった訳ではありません。

しかし先般の小泉旋風ではありませんが、大きな流れの前では、全てが些細なことになってしまいます。

この時は、藤井先生と多くの「新党」にとって風が有利に吹きました。

藤沢駅で街頭演説会をした時のことです。羽田孜新生党党首が応援演説に来ました。駅は数十分前から超満員です。しかも観客のなかにも熱気が溢れています。これほどの街頭演説会は、先にも後にも経験したことがありません。

一日の選挙運動が終わると、ご自宅に帰るまで運転をしますが、藤井先生は大概ワンカップを一本、車の中で飲まれます。帰り際に酒屋があると、候補者本人が行くわけにもいかないので、私が代わりに買いました。

最近藤井先生は焼酎ですが、当時は日本酒だったようです。

相模原市中央5丁目の一角に、プレハブを建てて選挙事務所にしていました。現在は大きなマンションが建っています。

この一度前の衆議院選挙では、藤井先生は定数4のうち最下位当選でしたが、「新党」に対する支持の多さもあり、定数5に増えた中のトップ当選を果たすことができました。

生まれて初めて選挙運動を経験し、大規模かつ大人数で行われることに圧倒され、将来自分に出来るのだろうか、とても不安になったものです。

選挙の結果、非自民勢力が過半数を占めました。共産党を除く各党各会派は、細川護煕を首班とする連立政権をつくったのです。

選挙が終わったら、藤井先生のお手伝いを少しの間休止するつもりでした。大学卒業に向けての単位獲得が厳しい状態だったことと、ゆっくり卒業後のことを考えたかったからです。

しかし藤井先生が大蔵大臣に任命されたことにより、再び面白くて止められない状態になったのです。

平成5年(1993年)7月。いまだ大学4年生です。

続く


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