てらさき雄介の日記
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2005年09月15日(木) 藤井裕久先生と その二

学生ながら藤井先生の議員会館事務所に、週2〜3日出入りすることになりました。

不定期な出勤ながら、いくばくかの賃金(小遣い)と交通費を出して頂きました。

さて仕事ですが、もちろん大したことはできません。主にしたのが、自民党本部で毎朝開催される「部会」への代理出席です。

もちろん学生の私が代理で行ったところで役に立ちませんが、藤井先生の名刺を置いて資料をもらってくるのが仕事です。多いときはいくつも同時開催で、まわって資料のみ回収してきました。

会議の印象は、国会議員のみ朝食をガツガツ食べていたこと。政治家同士の議論はなく、官僚の説明に対する質疑のみであったことです。

議員会館の事務所は、国会議員のオフィスとしては狭く、3人の秘書と事務員1人、そして私がいると窮屈でした。と言っても一番邪魔だったのは私ですが。

学生時代は、夏春休みの度に海外へ旅に行きました。その都度事務所から餞別(表現?)を頂き、貧乏な私には貴重な資金でした。

その他F秘書は、将来政治を目指す私に気を遣って、多くのためになる機会をあえて与えてくださいました。今でも役にたつ経験ができたと感謝しております。

自民党竹下派に所属していた藤井先生の部屋には、竹下登氏の写真が飾ってあり、当時はどの派閥もこうした習慣があったようです。

各議員の支援者向けの研修会や、秘書会などの宿泊を伴う会にも参加ができました。正直馴染めませんでしたが、色々な方々と接する機会を頂きました。

さて、学校に行きながら一年・二年とたっていき、藤井先生の運転をすることが多くなってきました。当時車はセドリックです。運転の下手な私が、よく都内をウロウロできたと、今思えば空恐ろしいです。

最近でも都内に車で行くと、意外に道を知っているのは、ほとんどこの時の経験によります。

藤井先生はとても忙しく行動され、待機している車が発見できないと、自分で電車に乗って行ってしまいます。その都度ブルーになりながら、それでも何回か同じミスをしてしまいました。

そのうち車で待つのではなく、会場出口で待って先生を発見するようにしたものです。

さて冒頭にも書いたとおり、永田町での経験の日々は、あくまで週に2〜3日です。いわゆる‘書生’的な姿ではなく、都合の良い部分だけつまみ食いしていたのです。まあ学生だから、それも致し方ないと自分で割り切りながら。

大学三年生も半ばを過ぎる頃には、政治家を目指すという将来について具体的に考えるようになりました。

藤井先生と事務所の皆さんに大変お世話になりながらも、大きな意味での自民党政治に疑問を強く持つようになりました。特定のきっかけがあったわけではありませんが、段々と不満と疑問が積もってきたのです。

現実この間あった各種選挙では、自民党の公認・推薦候補に投票したことはありません。(もちろん藤井先生の選挙があれば投票するつもりでした。しかし結局自民党で藤井先生が選挙を迎えることはありませんでした。)

しかし55年体制の当時は、自民党以外の政党をイメージする状況でもなかったのです。

大学四年生になり、友人たちが就職活動を始めました。事務所の先輩方も、一度民間に就職した方が良いのではと、本気で心配してくれました。

今後どうしたものか考えている内に、今に至る私の政治スタンスを決める、政変がやってきたのです。

時に平成5年(1993年)3月、21歳の時です。

続く


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