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2004年11月23日(火) |
笑いたい人は笑えばいよ |
昨日書いた、「兄真正面の席で観る時は当分恐怖感が伴うだろうなぁ」ですが。 これは、活字ではちょっと伝わりにくいものがあると思うんだけど、アキラはね、キリトから放たれるエネルギーに負けたんです。
毎回、ライブには「負けるかー!」みたいな気持ちで挑んでいるのです。 ライブを観せる側と観る側は喰うか喰われるかの関係性と同じと考えているのですよ。 いいモノをアーチスト(スタッフ等も含む)と客で共に創り上げ、最高の時間と空間を共有するには、それぐらいのエネルギーのぶつけ合いが必要だと思うから。
アキラが好きになったアーチストはたくさんあります。 でも、自分の身体に浸透したアーチストは数少ないです。 共通点は、【自分達がやりたいこと、言いたいこと、表現したいこと、行きたい場所がはっきりしている、もしくははっきりさせることが出来る人達であること】でしょうか。 そういう人達だからこそ、放つエネルギーは凄いものがあるのです。 少なくともアキラはそう感じています。
そのアーチストの中で一番好きなメンバーは?と訊かれると、それぞれに違うけど(むしろボーカリストは1番に上がることは少ない)、ボーカリストの力量はどのバンドも素晴らしいと思っています。 歌唱力とかルックスとかではなく、オーラが。
ボーカリストが自ら作詞を手がけている場合、その言葉達は、楽曲の言葉である以前に、その人の言葉である。 物語風に書いたにせよ、自伝的に書いたにせよ、その言葉は旋律に乗りながらその人のオーラを伴って流れていく。 実際に歌う時には感情も伴う。 そしてその全てがいくらかのエネルギーをもって放たれていく。 そのエネルギー量がすごいのだと思う。 「当事者の言葉だから重い」というのは、歌詞に限らず、世界中、世間一般、日常のどこにでもあることだ。
今まで、ボーカリストの目の前、もしくは延長線上の席で観たことは何度かある。 でも、大概ステージからの距離があったせいか、さほどの重みを感じることはなかった。 アキラ自身が、ライブというものの捕らえ方がまた甘かったのかもしれない。
重みを感じ始めたのは、昨年の神戸公演。 最後列でありながら、兄の正面延長線上の席だった。 昨年のツアーは、それ自体が怒涛のもので、だからこそ感動したライブであり、ツアーだった。 それだけのエネルギーを放出し続けたライブで、真正面を向いて歌う兄の延長線上にアキラはいた。 目が合ったとか、そんな妄想めいたことを言いはしない。 でも、撃たれる感覚に遭ったのを今でもはっきり覚えている。 ステージからの距離があったにも関わらず。 先日の宇都宮公演でもそれに似た感覚があって、神戸公演を事細かに思い出したくらいだ。 (もしかして、前回のツアー初日で感じた疲労感は、音圧だけによるものではなく、エネルギーを受けたせいなのもあるのかもしれない)
今日のライブでは、撃たれるどころのものではなかった。 痛みも喜びも感動も、全てを伴って放たれたエネルギーに押し潰された感覚があった。 終演後、感動と興奮と共に残ったのは、とてつもない恐怖感だった。
兄の笑顔も、泣きそうに歪んだ顔も、威嚇するような顔も、全てが見えた席だったからだろうか。 兄の機嫌がいいとか悪いとか、そういうこととは全く別の次元で、昨日はすごく恐いライブだった。 その恐怖感は、「圧倒された」と言い換えることも出来るのかもしれないけれど。
決して悪い意味ではなく(むしろ良い意味だと自分では思っている)、兄は恐いと思う。 ステージから降りて、ただのその辺のニーチャンになった彼のことはどうだか知らないし興味もないけれど。 「キリト」を恐いと、はっきりと感じた一夜でした。
2003年11月23日(日) きんろーかんしゃのひ 2002年11月23日(土) 感謝して〜
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