2004年09月13日(月) |
「ドッグヴィル」 人間の醜悪さを描き観客を不快にさせる達人トリアーめ。今回も、人間不信に疑心暗鬼、憎悪に復讐、コテコテ。 |
ドッグヴィル【DOGVILLE】 ★2003年ヨーロッパ映画賞 監督賞 監督・脚本:ラース・フォン・トリアー 撮影:アントニー・ドッド・マントル 出演:ニコール・キッドマン(グレース) ポール・ベタニー(トム) ステラン・スカルスガルド(チャック) クロエ・セヴィニー(リズ・ヘンソン) シオバン・ファロン(マーサ) ローレン・バコール(ジンジャー夫人) パトリシア・クラークソン(ヴェラ) ベン・ギャザラ(ジャック) ジェームズ・カーン(大きな男) ジャン=マルク・バール(大きい帽子の男) ジェレミー・デイヴィス(リズの兄、ジム・ヘンソン) ハリエット・アンデルセン(グロリア) ブレア・ブラウン(ヘンソン夫人) フィリップ・ベイカー・ホール(トムの父) レオ・キング(オリヴィア) ビル・レイモンド(ヘンソン氏) マイルズ・パリントン(ジェイソン) ウド・キア(コートの男) ジョン・ハート(ナレーション)
黒い床に白線で道や家の見取り図が描かれているだけのセット。
察するに30年代あたりのアメリカ、ロッキー山脈の麓、住人が15名+子供7人というみすぼらしい町、ドッグヴィル(犬村)。 ジョージタウンから一本道、この町で行き止まり。切り立った崖が 行く手を遮る。町と同じくらい住民の人生もどん詰まり。
この物語の狂言回しとなるのは作家志望の青年、トム。 最近、トムは町の人々を啓蒙しようと強引に集会を開き、 熱弁をふるうのだが、ほとんどの町民はげんなりしている。
早春のある夜更け、ジョージタウンのほうで銃声が響く。 やがて瀟洒な衣服を纏った若く美しい女性がボロボロの風体で ドッグヴィルに逃げ込んできた。 咄嗟に廃坑に匿うトム。 その女性、グレースを追って、ギャングの高級車がやってくる。 ボスは、女を見かけたら連絡しろ、とトムに名刺を渡し帰っていった。
トムは、これはドッグヴィルを変えるチャンスだ、神からの贈り物だと心躍る。 集会で、トムは皆にグレースを匿おうと提案する。 排他的な彼らが即座に納得するはずもない。 条件がついた。 2週間、猶予を与えるからその間に皆に奉仕し、気に入られたら 匿い続けてもよい、と。
前は崖、後ろはギャング、逃げ場のないグレースは、人々に従う他、選択肢がない。 かくして皆に気に入られるべく、肉体労働を提供することになった。
盲目であることを隠す老人の話し相手、子沢山家族の家の子守。 道ばたの草の手入れ。障害者のトイレの世話などなど・・・。 生まれてこのかた働いたことなどなかった彼女も次第に労働に慣れてゆく。
こうして2週間が過ぎた。投票の結果、彼女は町民に受け入れられたのだ。 僅かながら給料ももらい、住処も得、トムとの間に淡い恋も芽生え、幸せに夏が過ぎていった。
だが、警察がきて手配書を貼っていった。 グレースは郡中で指名手配中の強盗犯だというのだ。 どうやらギャングが彼女をなんとしても捕まえるためにFBIにグレースを売ったらしい。 彼女は過去は一切語らない・・・。
警察に隠し事をしているという罪悪感、不安感。 そして、グレースが若く美しいゆえに男衆の劣情をかきたててしまう・・・。
町はグレースに冷淡になってゆく。労働は過酷になり、虐待は酷くなる・・・。
逃げ出したいグレース。逃がしてやりたいが無力で無能なトム。
凍てつく冬が再びやってきた。 首輪をはめられ、昼は女たちに罵倒されながら奴隷の如く働かされ、夜には男どもの性の奴隷と化したグレースの運命や如何に。
飛行機恐怖症のせいでトリアー監督はアメリカを訪れたことがないし、きっと一生来ないだろう。アメリカ三部作、第一弾。
デンマークから米国の権力批判映画を撮っても、まさに負け犬の遠吠え。犬はお前だ、ラース・フォン・トリアー。
と、挑発にはノっておいてあげて、と。 たぶんそこまで承知で創ってるのだろう。監督は。
なにしろ、今回のテーマは人間の「傲慢さ」。 監督が謙虚な姿勢で傲慢さが描けるわけがないってことだ。
きっとブレヒトとか好きなんだろうと思ったらやはり、監督の ご母堂がブレヒトのファンらしい。着想はそこにあったわけだ。
映画としての舞台設定の斬新さは、「CUBE」かこれかというところか?
演劇を勉強したことのある者なら基礎で必ずやらされる訓練、 あるはずの見えないドアや壁に注意し演技をする。 ドアを開ける演技のヘタさに、映画俳優なのにお気の毒に、と苦笑してしまう。
犬まで犬の絵かよ、とウケてしまった。飛び降り自殺の死体の位置をチョークで書いたような状態なのである。 で、エサ皿と首輪だけは本物。
車だけが、中にいる人物が見えなくなる。 一種のサスペンスとして描くのに、この車の存在は大事だ。
外見に関することはこのくらいで。 3時間もかけて何を撮ったのか。
相変わらず、ヒロインを徹底的に貶め苦しめ惨めにヨゴし、 最後には人生をブチ壊すのかと思いつつ二時間半。 今回もソレやったらもう二度とこいつの映画は観ない、と思いつつ 残り20分で、お、今回は趣が違う、とニヤニヤしはじめる。
そして、ニヤニヤ醜い顔で画面を見つめているのであろう観客も、 監督の餌食だ。 ほら、あんたらも傲慢じゃない? 人間なんてみんなそうだろ? トリアーの挑発が犬、モーゼスの吠える声に重なって聞こえてくるかのよう。
溜飲は下がるが後味は最悪。 カンヌ無冠もやむなし、俳優陣の信頼も得られず、観客をナメ、 アメリカを醜さの象徴としてエンドロールで曝す。
ラースは偉くなりすぎた。 『エピデミック〜感染〜』や『イディオッツ』のようなオモシロイ小品を撮っていた頃はけっこう好きだったが。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が好きな方は、本作には微塵の感動も、泣かせツボも、美しい歌声もないので、絶対にオススメしない。 『ダンサー〜』で監督に殺意を感じた方、案外これはオススメかもしれない。レイプシーンの試写に耐えられず席を立ったニコール・キッドマンに同情。
レイプシーンで男の尻とタマが見える撮り方をするコイツって。 いい俳優なのに、ステランもケツ撮られて、女虐待する役か。 『ダンサー〜』でもヒロインを地獄に落とした役だった。
人間は裏切るもの、人間は醜悪な存在、そんな人間を許すなんて お前は傲慢だ、人を殺すより傲慢だ。
人間の惨めな部分をクローズアップしてシニカルに撮る監督は たくさんいる。 だが、そこに哀れみと愛を感じないなら、ただの世迷い言。
ドグマ95式では今回はない、ないどころか正反対。 すべてセット、小道具、人工照明。 常に新しい表現方法を模索するトリアーはチャレンジャーだとは 思うが、彼はどこまで、いつまで、人間の暗部をえぐり出す作品ばかり撮り続けるのだろうか。
結局、ラース・フォン・トリアーという、映画界に風穴を開けたデンマークの男が、最終的には何を目指すのか、それが知りたくてまた嫌な気分になると知りつつ私は観てしまうのだろう。
『ドッグヴィルの告白』というメイキングのDVDも発売されている。特典としてつけず、あえて別売にするとは、あこぎな商売するね。
じゃ、この映画の価値はどこかといったらもう、俳優陣。 珍しくポール・ベタニーは“利口ぶってる無能男”役を見事体現。 ニコール・キッドマンは、もう彼女あってこそのこの映画という 存在感。 ステラン・スカルスガルドの人間のクズ役には拍手。 まぁ、犬村全員クズどもだが、愚かなだけの町民も多い。
そしてトドメのウド・キア!あのシーンだけ犬臭くなかった。
映画でやる意味があったとすれば、役者の表情がアップで観られる、そこしかない。 月も炎もかきわりと照明なんだから。
最後に、指定はないが、高校生未満の子供には見せるべきではない。男性恐怖症、人間不信気味の人もやめておいたほうがいい。 あるいは、人間は愚かでも愛しい存在だと思える健全な方にもおすすめしない。
人間は、愚かで醜くて弱い存在だ。 そんなのトリアーにご指摘頂かなくとも、普通に生きていれば みな、それぞれの人生で苦い汁を舐めて知っている。 だからこそ、映画や物語の世界に、救いと愛を求めるのではないのか。
真実、リアリティは、それほど映画に必要だろうか? 私は希望が欲しい。
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