2004年08月06日(金) |
「死ぬまでにしたい10のこと」 優しさに包まれた物語。命を続けるだけで精一杯だった女性が、死に向かって生き始める。 |
font style="filter: dropshadow(color=cccccc); width: 100%" size="5">死ぬまでにしたい10のこと【MY LIFE WITHOUT ME】2003年・カナダ=スペイン 監督・脚本:イザベル・コヘット 製作総指揮:アグスティン・アルモドバル/ペドロ・アルモドバル オグデン・ギャヴァンスキー 撮影:ジャン=クロード・ラリュー 俳優:サラ・ポーリー(アン) スコット・スピードマン(夫、ドン) デボラ・ハリー(アンの母) マーク・ラファロ(アンの愛人、リー) レオノール・ワトリング(隣人、アン) アマンダ・プラマー(アンの同僚、ローリー) ジュリアン・リッチングス(トンプソン先生) マリア・デ・メディロス(ドレッドヘアの美容師) アルフレッド・モリナ(アンの父)
カナダ、冬。 アンは23才。17才でファーストキスの相手ドンと結婚し長女を出産、19才で次女を出産。 夫は現在失業中。アンは夜中に大学の清掃をし一家の家計をどうにか支えている。 独り暮らしの母の家の庭に置いたトレーラーハウスで夫と幼い娘2人とつつましく暮らしていた・・・。 父は、物心ついたときから刑務所におり、母もホテルで夜勤をして 必死で生活している。
でもアンは満ち足りていた。優しく、家族を深く愛してくれる夫。 愛くるしい幼い娘たち・・・。貧しくても、笑い声が響く暮らし。
ドンがやっと、少なくともここ1年は解雇されそうもない仕事を見つけてきた。豪華プールの建設だ。 一安心するアン。
だが、夜勤明け、娘たちを夫に学校に送っていってもらった朝、 アンは強烈な腹痛に見舞われ倒れてしまう・・・。 見つけた母が病院に運ぶが、とにかく検査が長い。 半日以上・・・・。 アンは自分の体のことよりも、娘たちのお迎えのほうが心配でならない。極寒の日暮れどき、校門でしゃがみ込んで涙目で待っているのでは・・・。 ナースに伝え母に子供を頼むと、気丈に1人、病院で医師の説明を待つ。
家族を呼ぶことを拒み、医師に余命の宣告を受けるアン・・・。 医師のほうが、とてもじゃないがアンの顔を見られなかった・・・。
あと2ヶ月。 アンは、ギリギリまで1日でも長く、普通に暮らし家族の笑顔を 壊すまいと決意し、鎮痛剤の処方以外の治療を拒む。
過労による貧血だと笑顔で言い訳するアンを、誰も疑わなかった。 日に日に痩せてゆくアンを、ダイエット中毒の過食症の同僚はうらやましがる・・・。
夜更けのカフェで、アンは「死ぬまでにしておきたいこと」 を書き出してみる。
娘たちに毎日、愛してると言う。娘たちが大人になるまで、誕生日のメッセージを用意しておく。家族旅行がしたい。 そして、娘たちに新しいママを探す・・・・・。 そんな、妻として、母親としての願い。
美容院で綺麗になって誰かを夢中にさせてみたい。夫以外の男性と恋をしてセックスもしてみたい。 そんな、ただの1人の女としての憧れ。
お酒もタバコもおもいっきり楽しむ。言いたいことは言う。 そんな、1人の人間としての意志。
刑務所にいるパパに逢いたい。 そんな、娘としての切望・・・。
時は無情だ。 叶う願い、叶わないこと、叶えなくてもよくなったこと、 いつか叶うであろう願い・・・・。
アンは1つ1つ、チャレンジしてゆく。 家族を食べさせ凍死させないために、ただひたすらに必死だった ときには見えなかったもの、出逢えなかった人々・・・。
アンは消えゆく命の光と引き替えに、魂の輝きを増してゆく・・・。
巨匠P・アルモドバルがプロデュースした作品、そして『スウィート・ヒア・アフター』で鮮烈で透明感のある演技でカンヌを驚かせたあのサラ・ポーリーが主演、ということでとても期待していた。
MY LIFE WITHOUT ME この原題にすべてが凝縮されていて、もう他に言葉が要らないと 思うほど。「死ぬまでにしたい10のこと」という邦題、とても どんな映画かわかりやすいが、妙に安っぽくないか?
10のことは、だって、ストーリーで触れたように、幾つかに分けられるのだ。10へのこだわりは必要ない。
彼女はまだ、世間でいうなら“お嬢さん”な年齢だ。 あんな細腕で立派に一家の大黒柱を支え続けてきたけれど、 ただそれは、言葉通りに「必死」だったからだ。
若い結婚を後悔してはいない。「後悔」なんてしているヒマは、 1分もない暮らしだった。
働いて稼ぎ、夫と愛し合い、娘たちを育て、食べ、眠って、洗濯をして食事をつくってまた稼ぎに行く。
だから、夫も当面の仕事を見つけ、物理的に「明日を生きのびるためだけに生きる」必要がなくなった今、彼女は、自分がいなくなった後の、愛する家族のために準備をし、自分が世界から消えても、 家族ではない誰かのココロの中に、それが爪痕であってものこしてゆきたかった。1人の女性として・・・。
まさにマイ・ライフ・ウィザウト・ミー。 この思慮深さと、邦題のお涙頂戴的なイメージは釣り合わない。
したいことを、恋も仕事も趣味もあらかたし終えて飽きたし、親も心配するしサミシイし、ラクしたいし結婚でもするか、という人生を送ってきた人にはアンの気持ちはわかるまい。 お伽話のようにリアリティなく感じてしまうだろう。
2ヶ月間(でも、実質的に体を動かせるのは一ヶ月程度だろう) で、母として、妻として、娘として、若い女として、人間として、 生きようとしたアンの決意は、悲壮さがなく、1日を、1時間を、 1分を味わいつくして生きようとする光に満ちている。
ガラスののれんに光が乱反射してキラキラ綺麗。 ぼんやりとのれんごしに眺める“わたしのいないせかい”。 アンは微笑んでいた。
家族に死の病を隠して頑張る『海辺の家』でも最後は空のベッドが示されるだけだが、本作はもっとうまい。
アンがこの世から去るシーンはない。 泣き崩れる家族も映されない。 人は逞しい生き物。 アンが逞しかったから、遺されたひとたちも、その気持ちを無駄に しなかった。
きっとやがて叶うのだろう、とぼんやりとアンが夢見た最大の願いが叶っているのを・・・きっと数ヶ月後かもしれない・・・ みせてもらえるのだ。
やりきれなさはそこにない。 誰かが生きた証は、そのひとが必死に生きたのなら、きっとこの世に美しい形で残るのだと、監督のメッセージが伝わってくるから。
ドイツ映画の「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」の男2人は独身なせいもあってコメディタッチで“死ぬまでにしたい10のこと”をリストアップする。でも、時間なくて1つに絞る。 1人は、ママにピンクのキャデラックを買ってあげたい。 1人は、同時に2人の女とヤりたい(3Pしたい)。 2人の夢は、海を見たい。
メキシコ映画の秀作「天国の口、終りの楽園。」でも、やはり もう守るべきものを失った女性が、誰にも告げず死を前に海を目指す。
家族の笑顔と幸せを守りたいアンの選んだ“普通の日々+ちょっとだけ、私1人のための、一度経験してみたかったシアワセ”は、 やっぱり泣かせる。
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