日記在庫整理 その3 |
まだまだ先が長いなあ!でも、やるんだよ。 日記在庫整理その3。
■新宿!?遠くねー? 2008年12月21日17:50
そういや金曜日、のんだくれておった午前3時に知らない番号から電話がかかってきました。
「携帯拾ったんスけどー。この番号登録されてたんで電話してみたんすけどー」 というつっけんどんな男からの電話で、でもこの番号わしの携帯には登録されてない。 どこで拾ったんすか?ときくと 「ドンキの横」 と単語で答えが返ってきた。どこのドンキ?と尋ねると 「千葉。東千葉」 とまた単語で返答。 千葉でドンキて、ヤンキーか。
と思ってたら つーかどこにいるんすか、と逆に尋ねられ、新宿と答えたら 「新宿!?遠くねー?」 言われたわい。そら遠いわな!こっちが千葉と聞いた時に言いたかったわい。
まあどうしようもないんで交番に届けといてください、と言ったら 「つーか俺ら、未成年なんスけど」 と逆切れされた。 知るかよ! でもオラオラ系というか輩なんだろーなーと思った。彼らはきっとガルフィーを着ているに違いない。
そこで電話が切れたけど、 あれはホントに携帯拾ったんだろか。新手のいたずら電話なんではないか。 その後は呑んで笑って歌いすぎて忘れてたが。 携帯って怖いね。いろんな意味で。
■「ありふれた奇跡」から目が離せぬ(地味だけど) 2009年01月30日01:36
毎日ついつい見てしまうのは「非婚同盟」ですが、 毎週木曜日は「ありふれた奇跡」を欠かさず見ております。 これ、地味なのだけどおもしろいよ!
まあ、山田太一ドラマですので、 家族があって、その家族のそれぞれに秘密があって、という具合(岸辺のアルバムイズム)なのですが、 それが徐々に明かされていくので目が離せん。 主人公(仲間由紀恵と加瀬亮)の父親たち(岸部一徳と風間守夫)にも秘密の接点があった!というところで今週は終わったのだけど、 予告を見る感じだと、その秘密ってのがどうやら
「女装」
らしい。(まだはっきりとはわからないが) 今、流行してるの?女装って。 なんかわしは毎週女装の話を聞いているような気がしますが。
と、サスペンスではないのに謎解き感覚があるのもいいところなんだけど、 主人公2人の距離感が絶妙で、それがおもしろいんだよなー。 とくに加瀬亮が巧い。 「さみしい。自分のことを解って欲しい」 「が、あんまり踏み込まないで欲しい」 という女性に惚れてて、その相反する気持ちに翻弄されてる演技がいいお。 自信なさげな見た目もいいですね。 見た目だけだと倉本聰のドラマに出てきそうな感じだよなー。 でもあえて山田太一。 会社クビになったので、実家の左官業やってるという設定も山田太一的THE・挫折って感じでよいです。
仲間由紀恵も上記のような態度とったり、「恋愛関係はイヤなの」「男女の関係になるのはこわいの」と言っているわりには、 メール来ないと自分から送ったり、自分が酔いたいときに加瀬亮誘ったりしていて、 人との距離感の取り方がわからない!ということにまつわるどうしようもなさ(出過ぎたマネすると嫌われる!という恐怖や、逆に向こうが出過ぎちゃうと自分が引いちゃう、というところなど)が反映されているドラマだと思います。 早く来週になんねーかなー!続きが気になるわー
■映画感想文 2009年02月09日20:58
日曜。 前日「悲夢」が見れなかったのがなんとなく悔しかったので 見に行ってきた。 http://www.hi-mu.jp/
ストーリーは↑のサイトを見てもらいたいのだけど、 別れた女のことを愛しすぎている男と 別れた男のことを憎んでいる女が 同じ夢(別れた恋人と会う夢)を共有しておって、 男のほうは夢の中で愛している女に会えるからいいけど、 女のほうは男の夢通りに憎んでいる男に会ってしまうのがつらい/苦しい、ってなわけで、 私はこんな思いしたくないから寝ないで!と詰め寄ったりするような具合。で、男は俺は彼女に会えるから嬉しいけど・・・と思うが、 (ちなみに彼/彼女の別れた恋人たち同士が今、現実に付き合っているという・・・文章で書くとわかりづらいが。主人公男女の元カノ、元カレ同士が付き合っているっつうことです。偶然スワッピングということです)
あ、これ以上は書かないでおこう。
まえにもどっかで書いた気がするが、 ものすごく好き!という気持ちと顔も見たくないほど嫌い!という気持ちは、実は同じ感情、同じ熱量なわけで(対極にあるのは「どうでもいい」「なんとも思わない」)、 その表裏一体ぶりを再確認する話でございました。 映画の中では「黒白同色」という言葉を使ってましたが。
途中、葦が生えている湿地帯みたいなところで、 夢と現実がクロスオーバーして、 元カノ元カレカップルが車ん中で大胆愛の交わりをしているところを 主人公の男女たちが目撃してしまうというシーンがあるのですが、 そこで交わっている彼らが 「愛してる、最高だ!」などと愛の言葉を叫んでいるうちに 感情が高まって、その愛の言葉が 「このクソ女、殺してやりたいほど愛してる!」 というような罵倒表現に変わっていくのだけど、 そーこーが! ものすごくグッときました。 わしゃ、こんな愛しか知らない気がする。
愛や恋は、全力で生きるものであると同時に 全力で死に向かおうとするものだと思っていたのだけど (死って言い方よくないね。全力で生命を燃やし、燃え尽きることを望むもの、かな) それは「渇愛」なんでしょうね。 渇愛の究極の果ては、自分ないし相手の肉体の「死」だけど、 愛や恋の「死」ではないというか。 むしろ愛や恋の「生」のために、おのれらの肉体を「死」という形をもって捧げるのかと。
でも人間、自分の肉体や人生を投げ出せるほどの「愛」には出会えなかったり、愛や恋はいずれ燃え尽きて終わるものだとわかっていたりするから、おのれの生命投げ出すほどの価値はないと思ったり、 もっと素晴らしい愛や恋に出会えるかもしれない、と思ったりして、 死なない人のほうが多いわけだけど。 まあ、どっちが幸せかなんかわからんよ。 その人が思うことが実現できたなら、それでいいのだろう。
あ、思っていることぜんぜん書けてねえな。 混乱しまくり。 もうちっと整理して書き直すとしよう。 というか、ほかにやることあるんだからそっちやろう。
■曲がり角の彼女て 2009年02月16日17:24
「最近、テレビの話題書きすぎ」と指摘されることが多いですが、またテレビ、しかも再放送ドラマのことです。
再放送「曲がり角の彼女」を結構な頻度で見ていたんだが、これってまるっきり「29歳のクリスマス」なんだなー。 相手の男が金持ちで、親に反対されて主人公は新しい職場を選ぶ(自分の可能性を試すために)、というのも一緒。 それを、29歳のクリスマスでは主人公(山口智子)にいやがらせしていた若い女の子役であった稲森いずみが、今度は主人公になってるというのが感慨深いドラマでございましたよ。
新芥川賞の書評で、「20代後半〜30代女性が、仕事か恋/結婚かを選ぶ時代は終わった」と書いてあったが、 別に終わりはないんじゃねえの。ただ単に、それどころじゃない、という人がちょっと増えてきたってだけで、それくらいの年齢になれば結婚したほうがいいんでないか、とか、この仕事をいつまで自分は続けられるだろうか、とか、なんだかんだでやっぱり恋で最良の幸福を得たい、とか考えるもんなー。 普遍的なことだよなー。
まあ、29歳のクリスマスにせよ、曲がり角の彼女にせよ、おんなは、自分の思う通りの選択をしていいのだよ!というドラマだったと思います。 失敗してもいいから、自分の納得いく選択をせえよ、と。どうせ我々おんなは欲張りな生き物なんだからさ、と。 その代わり、選んだ以上はそれで突っ走れよー、と。
途中で誰かが言ってた 「結婚してても、してなくても、つらい時はつらいし、さみしい時はさみしいのよ」 て台詞が印象に残っておるなあ。
それにしても稲森いずみは大好きなんだが、要潤はアゴが尖りすぎててやっぱいけ好かない顔だったよ。 あれもイケメンなのか…
■ナイト苦しいジング(やや長文) 2009年02月22日20:26
自分が苦しんだりつらかったり、いやな思いしたりするのと同じくらい、他人もそういう気持ちになったりするもんですが、 それを頭や常識ではわかっていても、自分が楽しかったり、気分よかったりすると、 そういうことに無頓着になってしまうものだ。
無頓着であることが必ずしも悪いとは思わんがね。 誰かのいやな気分のうえに成り立つ「自分の気持ちよさ」てのについて、今朝から今までちと考えておりました。いや、途中8時間くらい寝てたけど。
まあ、以前にとある出来事があって、私が勝手に「この人は私より人生経験も豊富だし、大人の礼儀作法も心得ているだろうから、きっと寛容だろう」と思っていた人から、 あの時自分は大変にいやな思いをしていた、でもそれぞれ事情があるだろうからしょうがないと思って忘れようとしたけど、しばらくいやな気分で過ごしていた、 という告白を受けたのですわ。 ほんとにごく些細なことだったので、え!そんなことを?とも思ったが、話をきいてとても筋が通っているし、その人には怒る権利があるわけで、 謝ったわけですが、 (筋が通ってなくとも、いやな思いをさせたという事実が重要だし、謝るのもわしの立場上当たり前なんだが) 考えさせられたなー。 その人の人柄に勝手に期待して、勝手に甘えていたなー、と。
期待する、というと実際の見返り(物質や行動、あるいは刺激とか安心も含めた保証とか)を得ることなような感じだけど、 この人は寛容だから許してくれてるだろうとか、 何も言わない(言えない)だろうとか、 そういう類の期待な。 甘えていた、という言い方したけど、軽んじていたという言い方でもいいかもしれぬ。 (ちなみに最初から私が私がの人が、同じようなこと言ってきても、こういう期待や甘えはその人に抱いてないから、また違うが)
まあ、その人が告白してくれたことによって、自分の気付いていない非にも気付いたし、 遺恨ものこさずに済んだわけだけど、 知らないままにそのまま生きるてのも可能だわな。 でも知らないまま生きてくと、自分のつらい苦しいにどんどん貪欲になって、そればっかり大声で主張する人間になる。 「私は自分のことしか考えない、人から疎まれて当然の人間じゃ!文句あっか!」 と、そっちに胸張っているなら、それはそれで見上げたものだし、しょうがねーなーリスペクトするわい、となるけどさ。でも一線引くけど。
でも人間は誰にでもよく思われたいし、何より自分で自分をマイナスに捉えたくないものだからな。 自分を正当化したいと思うわけで。
なんか長くなったが、自分はいっぱい傷ついたり苦しんだりする生き物であると同時に、他人をいっぱい苦しめたり傷つけたりする生き物である、と。 そこんとこの自覚はつねに腹に携えておこうと思ったわけです。
わしは他人にそういうことを指摘する筋合いもないし、自分のそういう部分認めるので手一杯だが、 そこに自覚がない人が多過ぎるので、 自分にたいする戒め含めて長々と書いてみた。
他人がなんと言おうが関係ない、という信念がある人は何また理屈っぽいこと書いてんだ、と嘲笑っていただきたい。 が、信念もなくやってきてる人には笑われたくない話であるよ。まあ、笑ってもいいけど。きもい、と遠ざけてくれても結構。一生、自分が被害者ヅラでやってろ、とわしがひそかに思うだけだから。
もうひといきで終わりじゃー次に続く
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2009年04月22日(水)
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