不幸以上しあわせ未満 |
前にわたくしのカラオケ講師・ふぁる姐さんから太田裕美の「しあわせ未満」という曲を教えて頂いたことがあったのだけど、 最近、太田裕美ベストアルバムを入手したので改めて聴いてみましたわ。
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「ハタチ前」という歌い出しですが、三十路前のわたくしの心臓を全面的にえぐる曲でした。前にふぁるちゃんがカラオケで歌っているのをきいた時もそう思ったのだけど。 まあ、前に聴いた時よりも冷静だし客観性獲得しておるので、歌詞の男の独白には何度か「異議あり!」と思ってしまうのですけどね。 僕に逢わなきゃ、君だって違った人生、とありますが、まあ、この女の子(おそらく20代前半か)は自分でその人生を選んだのだよ、あなたのせいではないのよ、とかな。しあわせにはなれない道を選んだことが、彼女のしあわせなのよー、とかな。 いや、ちょっと違うか。しあわせになれない道を選んだことは、彼女のしあわせではないな。満足というか、納得いく答えというか。そんなとこか。 一般に言われるような幸せ(金持ち、愛される、喧嘩なし、など)は得られないかもしれないけれど、不幸ではないのだからそういう選択をしてもかまわないと思うのだった。
で、まあ三十路前のわたくしにとっての「しあわせ」について考えてみる。 三十路前の一般女性にとって「しあわせ」とは、イコール結婚である。 結婚は幸せの象徴だ。結婚する女性は幸せの絶頂だ。幸せな恋愛をして、幸せな結婚をするものだ。王子様のような旦那様に愛されて、これ以上の幸せはない。
というようなことは、
現実には存在しない!
ということを三十路前の女性はわかっておるのだけど。 幸せな恋愛と幸せな結婚は地続きではない。 恋愛で得られる幸福感と結婚で得られる幸福感は、ごはんとおやつくらい別物だ。アメリカ西海岸と東海岸くらいの別物だ。朝青龍と白鵬くらい別物だ。 と、それがイコールなわけないことをわかっているのに それでも「恋愛の延長線上の結婚」というものを追い求めちゃうんだよな。 追い求めさせられるというか。 実在しない生き物を狩りに行くようなむなしさ満点である。 ツチノコなんかいねーよ、と思いながらも、「でも同級生の○○は見つけたらしい」「両親は見つけたらしい」という情報を得て、「あれ、もしかしたら私にも見つかるのかしら」などと思ってしまってるだけだよなー。離婚した人からの情報で「ほら、やっぱいねえじゃん」とわかるのに。 ああ、「恋愛の延長線上の結婚」て裸のツチノコだよな〜。 幻だとわかってても「私も見つけた!」って言いたいんだよな。くそー。
去年、鈴木亜紀さんのライブを見た時に、なんという曲なのかわからないのだけど 「恋は生きるためにするというけれど 私は恋で死にたい」 というようなことを歌っておられました。死ぬ気で恋してるだったかな。どちらか忘れてしまったが、これを聴いてハッとしたものだ。そうだよ!その通りですよ!と思ったのです。 恋愛は、死ぬくらいの覚悟でするものなんだよなー。 それに対して、結婚というのは、それこそ生きる、いや、生活していくためにするものなのだと思う。
で、ハタチ前、「しあわせ未満」の中に出てくるヒロインにとっては、死ぬ気でやってる恋愛こそが満足感の得られるもの=しあわせ(便宜上こう言わせて頂く)なのだけど、 三十路前、わしのような女性にとっては、生活していくためにする結婚こそが、安定感を得られるもの=しあわせなのだろう。一般には。 満足感よりも安定感。 年齢と共にしあわせ価値観が変わっていくものなのだろう。 けど。 けども! おれ、全然価値観スライドしねえ。 安定よりも、生きるためよりも、恋愛で死ぬのは本望だといまだ思っているよ。TOO HEART、恋して死にたい続行中だ。いまだ「時枝ユウジ!」だ。
こんな調子だから、私はチャンスを自分で潰しているのだろう。 友人が「恋と陰毛はどこにでも落ちているもんだ」と言っていたが、そういうのに目を向けてねえしな。その中には結婚に繋がる恋というのも落ちているかもしれないけれど、そんなものはどうでもよい。 いや、言い方違うな。目を向けられなかった。 いらんぜよ、と自分で拒否した。
でもそれも自分の選択なのだ。 たくさんたくさん考えて考え抜いた末の、選択なのだ。 いわゆる「しあわせ」にはならなくたって構わない。 私は、自分で選べたことが幸せというか、自分が納得いくことなのだと引き受けているしね。 なによりも、私は、自分の選択で自分は不幸にはならないとわかっているのだ。 まあ、そういうわけでこれからもしあわせ未満な人生は続いていく・・・
友人に 「お前、女なのに移行期間つーか予備品配備とかしないのか。自分で自分を窮地に追いつめてくのかーアホだなー」 と感心されましたわ。 アホで結構。それも自分で選んだ道!
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2009年01月21日(水)
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