ヤツザキ寂聴への道 |
ここ数ヶ月、自分掘り下げ運動をずっと繰り広げておったのは、ここ読んでればよくわかると思うのですが、 先日、久方ぶりに会った人といろいろ話をしていたら、ふと、 「女が上がったな!」 と言われました。 変化なんてのは目に見えないものだ。まあ、私の場合、「誰にどう見られている」よりも「自分で自分をどう見るか」に重点を置いていた数ヶ月だったので、何も言われんでもいいのだと思ってたのですが、そう言われるとああ、この数ヶ月はムダじゃなかったのかーと思えた。2008年半ばは不毛の時代!と決めつけていたけれど、不毛じゃなかったのだなあ。もっともっと女上げていくとしよう。 というわけで、フラフープを買おうと思案中。 「何故唐突にフラフープ?」と驚く事なかれ。こないだテレビで欧陽フィフィが「フラフープ毎日やってるよ!とってもいいよ!」と勧めていたので。しかしフラフープってどこで売ってるんだ?という壁にすぐぶつかったけど。 今日、「青山のこどもの城で売ってるよ」という有力情報を入手いたしました。行かねば!でも買ったとしても、電車の中をフラフープ持って移動しなきゃいけないんだよなー。
全然話は変わるが、ずるいことやっている人は、「自分はずるい」という自覚を持っていないとタチが悪いなあ、と思った。 私はずるいことはするな、とは思わない。何かを手に入れるために、あるいは、どうしてもそれを手に入れたいのなら、ずるいことでもセコイことでもやっていいと思う。ただ、やるならば「自分は今、とてつもなくずるいことをしているのだ」と思ってなきゃ。 そういう自覚は時として、「私は人の道に外れることをしている→だから苦しい、つらい」となって、我こそが被害者、悲劇のヒロイン/ヒーローだ、と思ってしまう場合があるのだけれど、そういうスタンスになっちゃあおしまいだ。聞いていても見ていてもイライラしてしまうからね。ずるいことやってるんだ!と自覚しているほうが話はわかりやすいし、ずっと清々しい。それは、他者から見ても、自分から見ても。 そうなんだよなー、ずるいってことを一番認めたくないのは自分だったりするんだよなー。「ずるいと思われたくない」「嫌われたくない」という感情が最優先になってしまうから。
私がこの数ヶ月、来る日も来る日も行っていたことは、つまり、「自覚すること=自分を認める」ことだった。自分にはどんな欲求があるのか、自分の足りない部分はなんなのか、自分が犯した罪はなんだったのか、そして、自分が本当に思っていることはなんなのか。本当にそればかり考えていた日々だった。 さんざん自分のこといやにもなったし、認めたかない部分も認めなければならなくて、つらいなあと思うこともたくさんあった。 が、まあ、最終的に私が辿り着いたのは、何も見返りがなくても、たとえ何も得られないとしても、自分の「信仰」は捨てずに、ずっと大事にしていけばいい、ということでした。 信仰ってもわけわからん宗教にはまったわけではない。念のため。 でもまあ、神様に例えると(話が複雑だな)、 神様は何も言わない。何もしてくれない、ではなくて 神様は何も言えないのだ。何もできないのだ、と思うこと。 そのうえで、神様を慕うか、慕わないか、だ。 私は慕う。信じる。それだけでもう十分だ。多くのことは求めんでいい。周りから見て、あいつ、とんでもなく不幸、しょぼい、みっともない、無駄なことやってる、かわいそう、であったとしても、私が十分幸せだからいいんだよ。 この幸せは誰とも共有できんでもいい。
あと、おもしろいなあと思ったが、 私が自分のために、自分の思うことを大事にする、 世の中の人間が全員わしをダメだと言っても、かまわんのだよ、 自分で自分をちゃんと支えられるから、というような話をすると こんなに自分についてのことばかり話しているのに 「ヤツザキさんは母性本能が強いんだねえ」 と言う人が数人おったことですよ。 わし、子供おらんのにな。そして自分ととことん向き合っただけなのに、なぜ母性という言葉に結びつくのかね。謎だ。
しかし、今日の日記は「女」「自分」「信仰」と瀬戸内寂聴テイストたっぷりだなあ。フラフープは全然関係ないけど。 出家でもしようかしら。 ←結構、冗談ではないレベル
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2008年11月21日(金)
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