ぼくは研究者の端くれになろうとしているところなので実際のところはよく分かりませんが。研究というのは、あるいは研究者というのは、なんとなく浮世から離れた存在であって、だから研究者は、自分の研究内容を説明するときには、誤解を招かないように注意しつつも、どうしても「トリビア」な話をしてしまう、あるいは、隣接分野でよく知られた話をしてしまう、という傾向がひょっとしてあるのではないか、という気がします。ナカムラ先生が、「研究者が大学の実験室にボーイフレンドを連れてきて「今日はあなたのために静電イオンサイクロトロン波を発生させるわ」というわけにはいくまい。」というとき、そこには「“本当にこんな素敵なことやってんだぜ”みたいなのが,恋人や友人に,あるいはもっと一般的に世界の大多数のひとびとに理解されない(上記リンク先より)」という認識があるように思われます。それはそうなのですが、これが逆に「なんだかよくわからないけど素敵なことを一途にやってるなんて素敵」という評価に転じる可能性があるのではないかと思います。その点、社会科学、とりわけおカネを扱うことの多い(おカネだけを扱ってるわけではないが)経済学や財政学分野ではこの種の「浮世離れ感」がなく、「よくわかんないけど素敵」な感じが少なくなるのではないかと。さらに言えば、研究結果が研究者自身に降りかかってくるという点では、浮世離れ感はさらになくなります。あたかも、「白い巨塔」の財前の最期のように(そうか?)。財前が自分の病状を正確に認識するがゆえに苦しむように(そうなのか?)。この「しんどさ」が、出島先生が言うところの、「経済学は,「実物面」よりも「金融面」,「家計」よりも「企業」に研究対象が偏っている」原因のひとつではないかなあとつらつらと考えております。やっぱり研究対象は自分の日常生活から距離を置いたところにあったほうが何かと楽だし、日常っつうのは企業や役所がなんとかしてくれるものということではないかと。企業の意思決定やマクロ・金融関連の分野というのは、あるいは理論モデルは、経済の研究者になる人の日常生活からはやっぱり一歩離れたところにあって、あいだにさまざまなチャネルが入るだけに「関係ないもんね」感があって、だからこそ好きなことが(論理的に正しいことが)なんでも言えちゃうし、楽じゃん、ってところがあるんじゃないかなーと。日常生活から離れているだけに「研究」っぽさも増すし。行政学や政治学もそうかもしれません。
いやだからどうっていうことはなくて、そうかもなー、と思っただけです。漠然と「世代間の不公平」とか論じて「われわれの世代も損なんですよね(苦笑)」とかしてるほうが、「所得の高い人の年金を削れ」といってるよりも、世間一般よりは所得の高い大学のセンセイたちにとっては気が楽なんだろうなあ、とか、そんなことを思ってるわけじゃありません。幸いにも僕の知ってる先生たちはそうじゃないし。
研究者のおはなしが、「夢がある」けどよくわからん、か、「トリビア」な感じで日常生活に役に立たん、のもムベナルかな、とつらつら考えてみました、ということです。で、そういう研究ができる環境があることこそ、豊かさの証であって、人間らしいことなんだろうなあ、と。