たまに××したり。
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2004年02月04日(水) 春節。

暦の上ではもう春です。
横浜に生まれ育ったから、と言うわけでもありませんが、春節があたしの中での1年の始まりと言う感じがあります。(中国では旧暦で新年を迎えます。中華街では春節になるとにぎやかに新年を祝います)
あの細木数子の占いによれば、あたしは今年はよい年であるらしい。
去年までは芳しくなかったのも運気のせいだ、と思えばいささか気も晴れようと言うもの。それも節分を境に運気が変わるのであれば、待ちに待った春節なのです。
昨日は仕事で遅かったため、子ども達に豆まきをするように言いつけ、太巻きを買って帰りました。
今までやったことがなかったのですが、恵方を向いて黙って太巻きを食べてみました。

「そんなに大きいのひとりで食べきれるわけない」

という夫の言葉を無視して、ひたすら無言で黙々と食い尽くしてやりました。
マメも年の数だけ食べたことだし、これで今年は大丈夫だろう。





このところ、言葉の重さみたいなことについて考えています。
自分の気持ちを言葉にして相手に伝える、と言うのは実に難しいものです。
同じ言葉でも使う人によってはその意味ですら全く異なっている場合もあるからです。
分かりやすい例をあげれば、

「あなたが好きです」

と言う言葉に、この人は自分に対する恋愛感情があるのだ、と受け取る場合と、もっと単純な友情的な意味合いで好きと言ってくれているのだ、と受け取る場合もあるということです。
まあ、前者が、そう感じる何らかの根拠がそこにはあったとしても、そもそも相手の視点が後者的なものであったとしたら、それは、ああ、勘違い的な状況を生み出してしまうわけです。

そんなのは受け取る側の勝手でしょ、と言う風に開き直るのもありだとは思いますが、相手側に自分の意図とは全く異なる解釈をされてしまうのにはやはり、言葉を発する側にもそれなりの責任があると思うのですよね。
もちろん言葉を重ね、慎重に慎重を期した上での発言でもうまく真意が伝わらないと言う場合もあるとは思いますが、自分が相手に言ったことが相手に対してどんな意味を持つのか、考えて話すことができない限り、軽薄であるとも言えるのではないでしょうか。

伝えるからにはきちんと自分の想いを曲解せずに受け取って欲しい、そう思うことが自然口数を多くしたり、逆に言葉に慎重になるあまり無口になってしまったりします。
クルマの運転ではないけれど、無意識に操作を行なってもかまわない場面と、注意を要する場面と言うのが日常会話においてもあるのだと思います。

ことさら意識することなく使えてしまうのが言葉であるのならば、お互いが快適に過ごせるように、うまくコミュニケーションを取ることが自然にできるようになりたいと思います。
今年の密かな目標です。

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