- 2004年07月04日(日) わざと悪い子にならなくても
★1・いい子
★2・Re:いい子
★3・Re2:いい子
★1・いい子
もしかしたら。
もしかしたら……
もしかしたら?
わたしは自分のことを「DV加害者だった」などと言っているけれど、
そんなふうに思ってしまうこと自体が間違っているのでは?
誰かから「おまえは加害者だ」と言われるまで、
黙ってほうっておいたほうがよかったのでは?
多くの人は「いい子」になりたがる。
自分にとって都合の悪いことは隠して、人には知られないようにするものだ。
それは、神さまじゃない人間だったら誰でもそういうところはあるだろう。
自覚なしにそういうことをしながら「自分は間違ったことをしてはいない!」と言い張る
わたしから見るととても憎しみを感じてしまうような人もいた。
そういう人ほどわたしに向かって「おまえは間違っている!」と言い立てるのだ。
わたしだって無自覚にそういうことをしてしまっているところが全くないとは思わない。
ただ、できるだけ謙虚になりたい、とは思う。あんなふうにはなりたくない。
(あ、話が逸れた)
ただ。
わたしはもしかしたら、「いい子になりたがる」ところが欠けている?
それとも、「悪い子になりたがる」?
どうも、そういうところがあるようだ。
わたしには「悪い子ならば、かまってもらえる」と思っているところがある。
これはいわゆる「AC(アダルト・チルドレン)」の問題だ。
父親は、わたしが小学校にあがったくらいから、わたしのことを問題視するようになった。
理由は、(性同一性障害のこともあるのかもしれないけれど)正確にはよくわからない。
まあ、何が問題なのかわたしにもわかるようになれば、
その問題を改善するようにわたし自身が努力し始めただろうし、
そうしたら父だって繰り返し繰り返し
「里花(とは言ってなかったけど)がこんなふうになってしまったのは
おまえ(=父の後妻でわたしの実母)のせいだ!」
と言い続けることもなかっただろう。
ただ、父の言うわたしの「問題」が何なのか、わたしにはついにわからなかった。
父が死ぬ間際、わたしに遺した言葉は「バカ」の2文字だけだったし。
だから、わたしの心に残ったのは
「問題のある悪い子は親にかまわれる」
ということだけだった。
わたしは自覚してわざとやっているわけではないけれど、
人からかまってもらうためにわざわざ「問題のある、悪い子」になろうとするところがあるのだ。
念のため、たぶん「バカじゃねーの?」と思う人が多いだろうから繰り返すけど、
本当に、本当にわざとじゃないの!!
だから、自覚できそうなところでは、わたしは決して
「悪い子」とか「悪者」とかになろうとなんかしてはいないの!!
知らないうちに、気が付くとそういうことになってしまう、そういうことがあるだけなのーーー!!
こら、落ち着け>自分。
わたしが自分のこと「加害者」だと言いふらすのは、
「悪い子になって世間にかまってもらう」というところがないか?
今はもうDV加害なんて決してやってないんだし、
なんだか「本物のDV」ってわたしがやったことなんかよりもずっとひどいことみたいだし。
確かに、結婚して一緒に家庭を築こうとしていた彼女には、とても悪いことをしてしまったと思う。
でも、それを「DV」と呼ぶべきなのか?
それに近いことをしてしまったことがあるのは事実だ。
でも、そういうことにだけ注意を向けて、ただ「悪かった、悪かった」と思っているだけでいいのか?
彼女は、そんなことも含めて、わたしに対して「もうかかわりをもたないで」と言ったのではなかったのか?
わたしは、自分が幸せになることだけを目指せばいいのではないか?
そのことを「身勝手」とか「わがまま」とか呼ばわる偽善的な人々など相手にせずに
そういう人だって結局は自分のことしか考えられないのと同じように
自分自身をいちばん大切にすることを目指すべきなのではないか?
この記事のトップへ
ページのトップへ
★2・Re:いい子
上の記事を書いた理由っていうか原因は、
どうも「本物のDV思考」を垣間見たからのような気がする。
でも、わたしが決してそんな思考の罠に落ちてしまうことがないのかといえば、
それははなはだ怪しい。
たとえば。
DVの源流のかなり大きなものに「戦争」があるのは間違いないと思うし、
だから戦争が起きない世の中を目指すのは当然だと思っているけれど、
自分のDV(ととてもよく似た)行為や、それを正当化する思考パターンなどを
全て「戦争のせいだ」=「戦争がなくならなければ自分も変わらない」と
言ってしまうのは、それこそが「DV思考」と呼ばれるものだと思う。
戦争があってもなくても、自分が変わる努力はできる。
たとえそれが、他ならぬ戦争のせいで限界のあるものだったとしても
その努力を否定するには当たらない。
自分がいくら変わろうと思って努力しているつもりでも、
何かに阻まれて変わることのできない虚しさを思い知らされた時、
それを何か他のもののせいにして
「自分の責任で不完全になってしまうのではない」と言いたくなってしまうのは
「責任」や「完全さ」を強く求められる企業社会では仕方のない思考パターンなのかもしれない。
けれど、他の何かに「責任」をなすりつけて自分が「完全」でないことを言い訳し、
結果的に本来自分が向き合わなければならないことからも逃げてしまっては
元も子もない。
むしろ、それこそ企業社会では「許されない」ことのように見えてしまうけれど
そんな見せかけに騙されたりせず、
自分がここまではできているということを「評価」して
「完全じゃないけどここまでできてるんだからいいじゃん」
といいかげんに思うようにするほうが
たとえばDVを防ぐのにもずっといい、と思う。
人間には完全な「白か黒か」は不可能だ。
いつまでたっても今いちよくわからない「灰色」がずっと続くのだし、
それは決して悪いことじゃない。
少なくとも、自分が人間であるということを肯定しようと思ったら。
この記事のトップへ
ページのトップへ
★3・Re2:いい子
いやー、そういえば、もう一つあったっけ。
本当は先週の日曜日に放送されていたんだけどわたしは見てなくて、
昨日の夕方くらいに見たんだけど、
NHKの大河ドラマ『新撰組!』で、とうとう芹沢鴨が死んだんだよね。
佐藤浩市の演技がとてもよくできている、ということもあるけれど、
あれって典型的なアルコール依存症の当事者の姿だと思ったし、
あの向こうにはきっとDVもあったんだろうな、と思う。
ドラマの中の芹沢はなぜか決して愛人のお梅には手を上げなかったけれど、
そこまで生々しくしてしまったら、ドラマのテーマまで変わってしまったかもしれないので
それは仕方ないでしょう。
わたしはある面で佐藤浩市の芹沢鴨に共感した。
あれほどプライドがあってしかもあれほど不遇な道を強いられていれば、
そりゃ世の中を全て恨むような生き方になってしまうのも無理もないでしょう。
でも、その「共感」は、わたしの周りに何人かいたああいう人たちのことを思い出してのものだった。
わたしはああいう人たちから、とても苦しめられ、辱められながら生きていた。
自分も同じような人間になるのだとしたら、生きてなんかいたくないと思っていた。
なぜそこまで思ったのかといえば、わたしの中にもあんなふうになってしまうための「種」がある、と
感じていたからだった。
それが生来のものだったのか、それとも後天的に与えられたものだったのか、
それはわからない。
ただ、少なくとも今は、自分がそういうこととはほぼ無縁と言ってもいいような生き方ができている。
そのことに、心から感謝したい。
-----------------------
……って、それ書いてから改めて佐藤浩市の芹沢鴨をNHKのサイトで見てみたら、
〜〜〜〜〜ううーーーん佐藤浩市、カッコイイ!!
芹沢鴨の破滅的な生き方を肯定するわけにはいかないけど、演じてる佐藤浩市は無条件にカッコイイよぉ〜〜〜。
実はそれが言いたいだけだったりして。
この記事のトップへ
ページのトップへ