原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2004年07月02日(金) 神さまはセクシュアルマイノリティを愛するか

★1・セクシュアルマイノリティと宗教



★1・セクシュアルマイノリティと宗教

(いや、なんでこんなこと書きたくなったのかというと、職場で社会科の「倫理」に出てくる「宗教」について生徒と話す機会があったから、というのが一つ、
あと一つは……やっぱり自分がずっと感じてきた「自分は神さまに背いているのか」という疑念に答えを出したい、と思っているから、ということがあるのでしょう)


Q22 聖書には「同性愛は罪である」と書かれてあるのでしょうか?
Q23 キリスト教は同性愛を受け入れていますか?
Q38 宗教では、性同一性障害を認めているのですか?

以下引用---------------------------------
(『同性愛って何?』(緑風出版2003年)より←クリックするとアマゾンで注文できます)

Q22 聖書には「同性愛は罪である」と書かれてあるのでしょうか?

聖書には「同性愛」という言葉自体は出てきませんし、「同性愛は罪である」という言葉もありません。にもかかわらずキリスト教会において「聖書に『同性愛は罪である』と書いてある」と語られることがあります。その際、根拠に挙げられるのは「女と練るように男と寝てはならない」(旧約 レビ記18章22節(引用者注―原文漢数字ですが改めました))などの言葉ですが、この言葉を見ても解るように聖書が書かれた時代には「同性愛」という概念がはっきりしていませんでした。

また、……(中略:「ソドム」という町が神によって滅ぼされたのが同性愛のせいだとは書いていない、という内容)……

また、……(中略:こんにち「男娼」「男色をする者」と訳されている語はもともと何をさすのかわからない語、という内容)…… ……この二つの言葉(=「男娼」「男色をする者」―引用者注)は、15世紀以前には同性愛に関する単語としては訳されてはおらず、同性間の性行為を表すものと理解されるようになったのは、同性愛を「性的倒錯」として排除する考え方が定着してからのようです。このことからも、聖書の言葉自体にはそのような意味はないにもかかわらず、解釈の歴史において、ホモフォビック(同性愛嫌悪)な考え方が選考して、解釈されるようになり、その解釈が定着してしまったことが解ります。

つまり、「聖書に『同性愛は罪である』と書いている」というのは、聖書が本来伝えようとしたものではなく、後の時代の人たちのホモフォビックな考えに基づく間違った解釈に過ぎないのです。


聖書を読むときに注意しなければならないことは、聖書の言葉には、それぞれの歴史的な背景があるということです。それらは、特定の時、特定の場所、特定の状況に生きる特定の人々に宛てて書かれた「神の言葉」なのです。ですから、どのような状況の中で、どのような意図をもって書かれたのかを考えなければ、聖書の言葉は本来の意図から離れてしまいます。また、聖書はそれぞれの物語・教えから成り立っていますので、その物語や教え全体で何を語ろうとしているのかを読みとらなければなりません。ですから、一言だけを取り出して、「聖書にこう書いてある」と語ることは全く意味を持たないことなのです。つまり、字面だけをとって「聖書には『同性愛は罪である』と書いてある」と解釈し「同性愛は罪である」と断罪することはできません。


聖書における「罪」とは……
もう一つ気を付けなければならないことは、「罪」という概念についてです。聖書における「罪」おちうのは、社会的、倫理的なものではなく、神様との関係性を表すものです。にもかかわらず、イエスの生きた時代にも、社会的、倫理的な価値観と聖書における「罪」を混同し、それによって「罪人」というレッテルを貼られた人たちがいました。そして、今日もなお、そのようなレッテル貼りが行われることもあります。ですから、現在の社会においても、「罪」に対する間違った捉え方から「罪でないものを罪」としてしまい、私たちは感じなくてもよい「罪意識」を抱かされています。そして、多くの人が必要以上に心に傷を負わされているのです。

けれども、イエス・キリストはその間違った捉え方を批判し、社会の価値基準から「罪人」というレッテルを貼られた人たちをそのままの姿で受け入れ、そのレッテルから解放し、その人の命も存在も大切なものであることを伝えようと、命をかけてその時代の社会と闘ったのです。つまり、聖書の目的は、人を積荷定め、裁くことではなく、人をあるがままに受け入れ、愛し、生きる希望を与えることにあるのです。イエス・キリストの十字架は、人を裁くための道具ではなく、わたしたちを罪から解放するための「赦しのしるし」なのです。これらのことから、「聖書には『同性愛は罪である』とは書かれていない」ことが解ります。

<大月純子>

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Q23 キリスト教は同性愛を受け入れていますか?

前項で見てきたように、……(中略)……

けれども、問題は、聖書やキリスト教の教えそのものではなく、聖書を解釈してきたキリスト教会の歴史の中にあるのです。キリスト教の教えと言われるものも、それぞれの時代の人間によって解釈し、形作られたものです。ですから、キリスト教の教えそのものが同性愛を受け入れないのではなく、キリスト教会の中にあるホモフォビックな感情によるものなのです。

ですから「キリスト教が同性愛を受け入れていない」のではなく、「そこにいるキリスト者の中に同性愛を受け入れることができない人がいる」ということなのです。もし、「聖書に書いてある」と語るキリスト者がいたら、その人は自分の感情を正当化するために聖書を利用しているに過ぎません。

一つの問題としては、キリスト教会の中に「性」をタブー視する傾向が根強く残っていることが挙げられます。そのため、同性愛だけではなく、様々な性に関わる事柄に関して、きちんと語ってこなかった歴史があり、そのために無知による偏見や差別が根強く残っているのです。それゆえ、今日もなお、教会の中で様々な性にまつわる事柄のために感じなくてもよい「罪意識」を感じさせられ、心に傷を抱えている人が数多くいます。

では、教会は本当に「性」について語ってこなかったのでしょうか? そうではありません。「性」について語ることを赦さない一方で、「性」を「汚れたもの」「マイナスなもの」とするイメージを植え付ける解釈をしてきました。その影響から、教会の中には「同性愛」に関して「理解しなくて良い」「語る必要がない」と思っている人がいることも事実です。実際に教会に行き、牧師に同性愛者であることをカミングアウトすると「祈ってなおしてあげよう」と言って祈られたり、そのままカウンセリングに連れて行かれたりするなどの悲しい出来事が起こっています。けれども、それは牧師や教会関係者の無知・無理解によるものです。

しかし、その一方で「性」について、教会の中でも語っていかなければならないことであり、語ることによって私たち自身が様々な心の傷から開放され、自分らしく生きることができるということに気付き、そのための取り組みも行われています。また、同性愛を始めとするセクシュアリティについての理解を深めるための学習や取り組みも行われたり、同性愛者の相談に乗っている牧師も増えてきています。

キリスト教と一言で言っても、様々な教派があり、様々な教壇組織や団体があり、それぞれの聖書解釈や教義を持っています。ですから、現在もなお、同性愛を受け入れない教派や教団や教会がある一方で、同性愛者も神に選ばれた民であるとして、教会から同性愛者差別を無くしていこうという動きを起こしている教団や教会・教派もありますし、もともとある教派の中でもセクシュアル・マイノリティのグループができています。

また、キリスト教会の中にもたくさんの同性愛者が存在します。中には、自分のセクシュアリティを神様が与えてくださった賜物であるとして受け入れ、そのことの喜びを伝えていきたいと願って、活動をしている人もいます。また、現在日本の中にも、同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティのキリスト者のコミュニティもいくつかあり、集会をしたり、聖書の読み直しをしたり、情報交換などの活動が行われています。

神が求めていることは、自分自身のあり様を否定して、社会の枠組みに自分をはめ込み、苦しみながら生きることではなく、自分自身が神の前で美しい存在であり、神にとってかけがえのない存在であるということを知り、自分自身を受け入れ、愛することなのです。「同性愛」という「性的指向」は本人の意思で選択も変更もできません。しかも、「同性愛」は病気でも「障害」でもありませんから、祈って治るものではありませんし、治す必要もありません。ですから、教会には社会などの価値基準によって自分のセクシュアリティを受け入れることができずに苦しんでいる人の心の傷を共に担い、癒していくことこそが求められています。今日のキリスト教会がしなければならないことは、教会の中に根強く残っている「同性愛」に対する偏見や差別や嫌悪感を無くし、どのようなセクシュアリティであっても、神の前でかけがえのない存在であるという喜びを分かち合っていくことなのです。変わらなければならないのは、「同性愛者」ではなく、「キリスト教会」とそこに生きる一人一人なのです。

<大月純子>


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(『性同一性障害って何?』(緑風出版2003年)より←クリックするとアマゾンで注文できます)

Q38 宗教では、性同一性障害を認めているのですか?

宗教と言っても各々の国に何十何百とある所もあり、成立時期によっても考え方に硬軟あって一概には言えませんが、「同性愛」は出てきたとしても、名称に多少の違いはあっても「性同一性障害」というものがはっきりと登場する教えは、よほど新しいものでないかぎり、見つけるのは難しいと思います。

もし古い時代に性同一性障害というものが世間に浸透していたとしたら――どうでしょう。

仏教の宗派の一部には「変成男子(へんじょうなんし―引用者注;以下カッコ内で紺色の字は全て本文内の原著者注)」という語が残っています(法華経の第十二「堤婆達多品」の竜女成仏の逸話が有名)。それは「女子は五障があって成仏できないため、男子になって成仏する」という、まことに男尊女卑的ではありますが性の変更を(女子から男子の場合には)奨励するような考えです。性別よりは、成仏することに重きがおかれているからでしょう。

キリスト教圏では性的少数者への嫌悪がひどく、命の危険さえありますが、それは全く元々のキリストの教えの核を忘れ果てた行いです。聖書では、異性装を禁じる箇所が見られるものの、聖書の書き手たちの私見が必ずしも皆無ではないであろうことや、文化的・時代的背景を考え合わせると、それを文字通り受け取ることが、そもそもの教えにかなっているとは思われません。むしろ女王に仕えるために去勢した宦官に、全く差別なく丁寧に復員をのべ伝える箇所(使徒行伝8・27〜39)や、「母の胎内から独身者に生まれついているものがあ」るとの、生まれつきを重視した言葉(マタイによる福音書19・12)、さらに「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」(コリント人への第一の手紙15・10)を味わうべきでしょう。特にこの「コリント人」の箇所にあたる英文は、By the grace of God I am what I am(神の恵みによって、私は≪今のような≫私であるのだ)ということであり、信仰に生きる者が、自分ではわけがわからないまま性同一性障害を抱えてしまい、あまりに苦しいので治療に専念しようとどうしようと、全ては神の御心のままであり、冒涜には当たらないのだと解釈したほうが、愛の宗教にふさわしいでしょう。

イスラム教は、めちゃくちゃ厳しいように見えますが、不思議と鷹揚なところもあります。エジプトでイスラムの性同一性障害問題について調査をしてきた友人の伊東聰氏によると、「イスラム教では、この世に存在するものは神のもとにおいて等価で平等。存在するものに格差が生じる原因はひとえに、神への帰依の強さ」であるため、人は「人間」であることがサキで「性別」はその「人間」の属性に過ぎず、不完全な状態で生まれるとの見方をしています。

しかし神への帰依の強さを実現するためには「男」あるいは「女」のどちらかはっきりしていることは重要なのだそうで、その点から性同一性障害への治療は、反イスラムとは思われないそうです。

仏教は「慈悲」、キリスト教は「愛」、イスラム教は、その核を強いて一言で示すなら「寛容」でしょうか。どの言葉も、性同一性障害の治療をはばむものとは思えません。ひたすらに信じ、帰依し、その道を生きるかぎり、その人間が、どうしてもそれをしなければ生きていけないほど追いつめられた挙げ句に、多少身体を変えてみたところで、大きな問題ではないのではないかと私は思います。

一木一草に至るまで、全ての生き物を創られたほどの方が、何の計画もなしに性同一性障害を抱える人々をこしらえ続けているとは思えません。必ず理由があるはずです。

性同一性障害を、考え方を工夫して何の治療もせずに乗り越えた人は、より強い人間になるでしょう。どうしても手術をしなくてはダメな人が、何年もかけて必死で貯金し、家族や恋人などと、あらゆる修羅場をくぐり抜け、とうとう待ち望んでいた肉体となった時には、心の底から「生きていてよかった」と感じられることでしょう。そうやってしばらく暮らすうちに、男と女、二つの視点を経験した自分のユニークさが、貴重なものに思われてくるかもしれません。

その強さ、感動、自己肯定感を、今ある自分を支えてくれた人々全て、育んでくれた世の中全体への感謝へと昇華させることができ、ついには自分の生命の大元である創造主への深い感謝と畏敬の念を、本当に持つことができたなら、性同一性障害も何もないのに不平だらけでダラダラ生きている人々よりも、ずっと神仏に愛される人間になることができたのだと、自信をもってよいと思います。

(虎井まさ衛)

(なお、引用した両書とも、本文の下に豊富な注釈情報が入っていますが、煩雑になってしまうため、ここでは全て割愛しました)

---------------------------------以上引用

とりあえず、引用しただけで疲れてしまったし(ぜんぶ手書き!! あ、「手打ち」っていうのかな?)、今のところ私見を付け加えようとも思わない。
それぞれの文章を繰り返しかみしめたい、と思うばかりだ。
ただ、わたしの目の前にあった霧がだいぶ晴れてきたような気はする。

-----------------------数分たって……

あ、そうそう。
わたしの知り合いのキリスト者が「ECQA」という団体のニュースレターをくれた。
「ECQA」は「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会」という意味だそうだ。
「無断転載・複写禁止」ということになっているので詳細を紹介するのは控えるけど、教派を越えてセクシュアルマイノリティを肯定する立場から信仰を考えていく団体がある、ということは、それだけでもわたしにとって心強い。
(「教派を越えて」っていうところもわたしの好みだし♪ だって、わたしの信仰は、プロテスタントの母とカトリックの姉から受け継いだものだもん!)

わたしは、確かに日曜日に教会へ行くこともせず、あちこちで「聖書を言葉どおりに信じるなんて無理だよねー」などと言いふらしたりしている「罰当たり」のような者だけど、わたしが認知できる世界の全てを無から創られた神さまがいる、ということだけは信じている。っていうか、「知っている」。
見たこともさわったこともないけれど、神さまがいる、ということが全身で実感できるのだ。(こればっかりは、見ることもさわることもできない相手なので、他人に「わかってくれ」などとは決して言えないことだけど)

そうして、神さまが、わたしのような者でも愛してくださっているのだ、ということを、信じたい。……これは希望みたいなものだけど、この希望が確信になっていく過程が「信仰」なのかも?という気もする。まだわかんないけど。

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