原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2000年05月14日(日)

★1・書き込みふたつ
★2・出家とトランス
★3・「ハリー・ポッター」とか「ガラスの仮面」とか
★4・小説(SS)書きました
★5・諍い



★1・書き込みふたつ

at 2000 05/14 01:53 編集

[2541] 軸足 投稿者: じゃっきー 投稿日:2000/05/14(日) 01:28
みんな、自分の軸足は「自分」のところ。
そんなの、あたりまえ。
でも、辛いなあ。
ある人が見たいと思っていることが、その人の「軸足」を変えないと見えないところにあるのを指摘してあげようと思うと、自分の見えないところは「棚上げ」にしないとならない。
まるで、自分が「見えないものは何もない」かのように振舞わなければならない。
そんなの、あり?

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[2440] 性 投稿者:じゃっきー [東海] 投稿日:2000/05/14(日) 01:50
今の私にとって、男も女も、どちらも異性。
魅力的な人にはときめいてしまう。

でも、今の私にとって、男も女も、どちらも同性。
心か身体か、どちらかはおんなじ構造や性質なのがよくわかる。

でも、きっと、私の存在はどちらから見ても異様なんだろうな
あ。
いつまでたっても、どちらにもなれそうもない。

自転車で走る自分の姿がショーウィンドウのガラスに映ると、今
はほとんどどちらにも見えるしどちらにも見えないのがわかる。
姿も、動きも。

そうして。
生まれつき「どちらでもない」人からも、拒絶される。
もしかしたら、私の「性」は「わたし」なのかもしれない。
誰とも違う性。
自分だけの性。
自分のせい。

エデンの園の、林檎の食べ残しを、芯まで齧り尽くそう。

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★2・出家とトランス

at 2000 05/14 01:59 編集

似ている。
ような、気がする。

でも、それ、おかしい。

子どものGIDなど、そんなもんではないでしょうに。

いやだ、いやだ。
こんなの、早く終わりにしたい。
男として生かされてきたことなど忘れて、穏やかに暮らしたいだけなのに。

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★3・「ハリー・ポッター」とか「ガラスの仮面」とか

at 2000 05/14 02:01 編集

☆「ハリー・ポッターと賢者の石」
今、ペーパーバックで読み始めたのですが
(英語のレベルは、もともと子供向けの文章なのでそんなに難しくはない)
10ページも進んだところで、ハリーが「許されない存在」だったことが浮かび上がってきました。

☆「ガラスの仮面」、「一気読み」しました。
(「急性漫画中毒」にはならなかった……と思うけど)
北島マヤもまた、子どもの頃から「許されない」存在のように扱われていました。

・二人とも、自分の存在の「許されなさ」を克服しようとして、
額に稲妻型の傷跡があったり、一度見たお芝居のセリフをいきなり暗記できたり
するようになるのでしょうか。

☆そういえば、私も小さな頃、自分の存在が「許されない」ものだ、と知って、それが「ばれない」ようになる「超能力」が身についているかどうか、必死で念じてみたことがあります。
残念なことに、自分の心のどこを探っても超能力のかけらも見つからなかったのですが、ふと気が付くと私の場合は「音楽をやっているときは『自分』でいていい」と思うようになっていました。

そういうのも、アリですよね?

惜しむらくは……音楽をやる自分は、完全に「オトコ」に「翻訳」されているのでした。
だって、声変わりしちゃったもーん(;_;)

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★4・小説(SS)書きました

at 2000 05/14 12:35 編集

迷子
作:会津里花



そろそろ高校生活にも慣れてきたかな、なんて気がしてきたこの頃。



4月の間は正直言って怖かった。

なぜなら、俺は極度の方向音痴なのだ。

自転車で高校まで通うことになったとき、「やばい」と思った、マジで。

案の定、ほとんど「毎朝」って言ってもいいぐらい、俺は登校路を間違えた。

初日、町の東の端にある高校へ行くつもりが、気が付くと西の海岸のあたりまで来ていた。

おかしいと思って、2日目はしっかり道順を聞いておいて、目印なんかも確かめながら行ったのに、いつのまにか目印が見当たらなくなっていた。

戻ろうと思って今来た道を引き返したのに、次に気が付くと、さっき通ったのと違う道を走っていた。

学校に到着したら、1時間目が終わろうとしていた。

で、2度続けて遅刻しちゃったから、3度目は道に迷っても遅刻しないように、30分も早く家を出た。

前の日は1時間半ぐらい迷ったので、「30分」でいいかどうか、心配だったのだが……。

そうしたら、ぜんぜん道に迷わずに、学校に着いてしまった。

まだ誰もいない校舎が妙に新鮮で、俺は図書室とか音楽室、美術室なんかがある建物の端の方を歩いて回った。

教室だと、先輩の中に入っていくのは怖かったし、2日続けて遅刻したのを見られているやつらに「今日はやけに早いなあ」と冷やかされるのもいやだったから、始業まで人がほとんどいないままのところを選んで見て回ったのだ。

ところが、最上階の音楽室にいたら、始業のチャイムが鳴った。

鳴ってから1階の自分の教室まで降りていったのでは、間に合うわけがないじゃないか!

……というわけで、3日目も遅刻みたいなものだった。

迷子になるパターンはさまざまだった。

太陽の見える方に向かって走ればいい、と思って実行してみた。

そしたら、いつのまにか高校を通り過ぎて、もっと東に行っていた。

父に地図を描いてもらって、目印を通過するごとにチェックを入れた。

なのに、必ずどこかで目印がいつまでたっても出てこなくなるのだ。

日曜日、父の車に乗って通学コースを走ってもらった。

どの目印も―コンビニは同じ看板の店が多いから、必ずその隣の店や家の様子もセットで―見間違えてはいなかった。

週が明けると、また30分早く家を出た。

また、迷わなかった。

今度は、学校に着いてからフラフラして失敗するのがイヤだったから、文庫本を持って行って、席につくなりそれを読み始めた。

いつのまにか、小説の内容に没頭していた。

始業のチャイムが鳴ったのでようやく我に返ると、俺の席の横に女子が一人、半分泣きそうになって立っている。

「そこ、……あたしの席なんだけど……」

俺は隣の教室に来ていたのだった。

2週間たって、どうやら「30分早く家を出る」と、少なくとも学校へは迷わずに到着してしまう、というパターンに気が付いた。

もうちょっと遅くてもいいだろうと思い、25分早く家を出てみた。

そうしたら、やっぱり迷った。

でも、このときはギリギリで遅刻しないで学校に着いた。

20分早く出たらどうなるか。

やっぱり迷った。しかも、遅刻した。

35分早く家を出た。

迷わなかった。

けれど、やっぱり学校に着いてからが大変だった。

早く着くと、油断してしまうのだろうか。

友人と一緒に通うようにしようか、とも思った。

ところが、友人宅を探して迷子になってしまった。

「待っていた俺まで遅刻しそうになっちまったじゃねーか!」

そいつは二度と一緒には行ってくれなかった。

別の友人に、家まで迎えに来てもらうことにした。

ところが、その友人は、俺と一緒に迷子になってしまった。

「ひょっとして、おまえも方向音痴?」

「バカヤロー、俺は今まで迷子になったことなんかねーんだよ!!」

そいつも、二度と俺と一緒に通学してくれることはなかった。

こういうわけで、4月いっぱいかかって、俺は「25分早く家を出て、迷子になりながら遅刻寸前で学校に飛び込む」という日常を身に付けたのだった。

迷子のコースは毎日必ず違っていたので、退屈はしない。

ただ、ふとした拍子に前にも迷い込んだところに再び出くわすこともあって、「お、ここ知ってる」と気が付くのはとても感慨深い。

そんな気がし始めて、4月が終わった。

ゴールデンウィークは人並みに遊んだ。

一度、家族(父、母、俺、ばあさん)で食事にでかけるのに車で走っていたら、ほとんど見たことのある道ばっかりで驚いた。

もしかしたら、4月の間に町じゅうの道を走破していたのかもしれない。

俺はひそかにほくそえんだ。

1ヶ月で町じゅうの道路をぜんぶ走ったやつなんて、他にはいるまい。

これで、どの道を通るか、自分で決められれば、ぜったい人に自慢してやるのに。

くそぉっ。



そうして、5月になった。

担任の教師(なんでこいつはいつもボタンの合わせ方が逆になったワイシャツを着てるんだ?)が言わなくてもいい「5月病」なんて言葉を言ったので、少なくとも3人は本当に「5月病」にかかったらしい。

2人が学校に来なくなり、1人は保健室に通うようになった。

俺はそれどころじゃなかった。

せっかく身に付けつつある「25分前に出発、迷子にはなるけれど遅刻しない」というパターンを守ることに神経を集中していたし、迷子になって新しい道を見つける (なーんだ、まだあるジャン)のが楽しくて仕方なかったのだ。

帰り道もたいてい迷子になるが、遅くても日付が変わる頃までには家にたどり着くので、捜索願も出されないし、西日から藍色に変わっていく風景の中の迷子はあんまりあせることもなかった。

何よりも、けっきょくは家にたどり着くのだ。着かなかったことはない。

もしかしたら、俺は本当は「方向音痴」なんかじゃないのかもしれない。



そんなある日のこと。

いつものように、俺は朝「25分早く家を出て」……っていうより、これは最初(入学したての頃)に決めていた時間が25分早すぎた、と考えるべきだよな、だから「定時に家を出て」って言うべきだよな。今、気が付いた。

で、いつものように迷子を楽しんでいた。今日はなんだか、静かな感じの住宅街、それも大きな家ばかりが並んでいるから、「お屋敷町」なのかな。

でも、学校へ行きたかったら、こんなところを走っていてはいけない。

確か、……確か、ここは、……学校よりもわりあい南の方だったはず。ええっと、北へ進路を変えないと……あれっ、太陽が後ろに見える。じゃあ俺、西に向かって走ってるのか。

なんでこうなるんだろう、いつも。

自転車を歩道に止める。なんだか、やけにおしゃれなレンガ色の石畳の歩道。

父に描いてもらい、その後自分で目印なんかを書き足している地図を、鞄から出して広げる。

確か、さっき見つけた目印は、……ああ、これだこれだ、コンビニ「K」の横を通り過ぎて、最初の角を左に……あ、これを忘れていた。そうすると、俺はそこをまっすぐに来てしまって、……そうすると、今いるのは「O町」か。じゃあ、「K」の次の角まで戻るしかないよな。ああ、でも、あの角、こっちから行ってわかるかなあ……不安。

地図を見ながらでは自転車で走れないので、いったん鞄にしまうと、俺は自転車の向きを変えて、走り出そうとした。

すると、路上にキラリと光るものが目に留まった。

いつもなら、どうやら100円玉らしいけど、そんなものを見つけても正しい道を探すのに精一杯で無視してしまうのだった。

それなのに、なぜか今日だけは、自転車をひきずってそこまで行き、自転車を降りてかがみこむと、落ちていた100円玉を拾ったのだった。

ほとんど泥も着いていないので、たぶんつい今しがたぐらいに通り過ぎた誰かが落としていったんだろう。

あ、今年のじゃないか! もう出てたんだ。初めて見た。

俺は100円玉を小銭入れに入れて鞄の中のしまうと、さっきまで走ってきた道を引き返した。

太陽はちゃんと後ろに見える。西に向かって走れば、また元の角まで行き着くはず。

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★5・諍い

at 2000 05/18 01:47 編集

「05.14・書き込みふたつ」にも書きましたが、人は誰でも、自己主張するときは必ず、自分の立っているところを軸にして立論します。
言い換えれば、自分の立っている足を「軸足」にして世界を見回し、自分の中で世界を再構築するのです。
それはあたりまえのことです。
理由は二つ。
・他人の目で世界を見ることなんか、できるわけがない。
・仮にできたとしても、自分のことを他人の目で見てものを言っても、何を言いたいかわからなくなる。
ところが、そういう前提があるにも関わらず、人は「他人の目」を持とうとします。
他人の目で見て、その人がどんなふうに世界を再構築しているか想像することの一部を「思いやり」とか「気遣い」とか言います。
このとき、注意すべき点が二つあります。
・決して相手の目「そのもの」でものを見るわけではない、ということ。
・「自分の目」と「相手の目」をしっかり区別すること。
二つ目のこれが、私は苦手なのです。
自分の気持ちと相手の気持ちがごっちゃになってしまったら、相手が感情的に高ぶっているときに、自分も同じように感情的になってしまうことしかできません。
これでは、「思いやり」「気遣い」は、きちんと機能しないのです。

「あなたは『自分』と『他人』の区別がしっかりできていませんね」
……この間まで通っていた精神科のケースワーカーさんの私への言葉です。
(「境界型人格障害?!」といって騒いでしまいましたよね(^^;)
「そんなことはない、あの人はとことん自分勝手な人だ」と思っている人が何人もいるでしょう。
でも、たぶんそれは違います。
その人からの私への視線に、私自身が重なってしまっているのです。
相手が自分を見ていれば見ているほど、自分と相手の「目」が混同したとき、私は相手の目で自分を甘やかすことしかできなくなってしまうのです。
もちろん、それは相手の問題ではなくて、私自身の問題です。
相手が私に対して盲目的に慕ってくれたり頼ってくれたりしていると、私はその人との関係において自分自身に対して盲目になってしまうのです。
なんておバカなんでしょう。
でも、私に対して苦言を呈してくれる人に対しては、私は拒否的な態度をとってしまうことが多いです。
はっきり言って、何か言われると「ムカツク」のですね。
子どもみたいです。
でも、それ、どうやら、自分で元々低い自分に対する評価を、それ以上下げる余地がないから、批判を聞き入れる余裕がないんですよね。
こんなとき、私は相手と「諍い」を起こしてしまいます。
ただ、そんなときには、たいてい相手にも必ず何かしら「非」があるのですが、残念なことに、私は「自分」と「相手」を上手に区別できていないので、「相手のこと」だけを相手にわかるように言ってあげることができません。

誰でも、何か悪いことがあったら、本当は「自分のこと」しか反省できないものです。
「他人のこと」まで、その人に成り代わって「反省してあげる」なんて、神さまじゃあないんだから……。
でも、時として、私はそのようなおこがましい感情を持ってしまっていることがあります。
そういうとき、私には相手の「非」を指摘する能力はなくなっています。
人を批判するには、信じられないほどの勇気と冷静になるための忍耐力が必要なのです。
これは、「AC(AA)」などの自助グループでよく唱えられる「お祈り」:

『変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものを変える勇気を
 そして、この二つを見分ける賢さを』
    (セレニティ・プレアーより)

私も、AC(アダルト・チャイルド=「機能不全な家庭で育ったため、子供の頃から何かしらの面で大人びた役割を果たすことを強いられてきた人のこと。子どもの頃に受けた精神的外傷の影響を強く受け、情緒的・行動的な問題を抱えている。自己治療の試みと思われる様々な嗜癖行動を持続していることが多い」)です。
(詳細は「みんなのひとこと」掲示板をご参照ください)

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