頭がガンガンするが思い立った時に書いておく。 日本人とナンシー関との関わりには三パターンほどあって、
「ナンシー関好き! リスペクト」 「ナンシー関? 記憶スケッチの人でしょ、好き」 「ナンシー関ー? あの太った人?(あるいは誰か知らない)」
こんな感じじゃないかと思うんだが。
今日はナンシーのどこが偉大だったかを書き残しておきたい。 そう強く思った。
「ナンシーいいよね」
そう言える人の胸には、たぶん「甘え」ってもんがない。 ナンシーはリトマス試験紙みたいな人だった。 ナンシーはプロ意識と客観性の固まりのような人だった。
彼女が誰かのことを書く時、そこには「自分」がない。 中途半端なカワイイやビジンは、かっこいい芸能人、 つまり、キムタクだの窪塚だのを語る時、ついつい、
「そうは言っても、もし目の前に居たらキャーて言っちゃう」
みてェな視点をどうしても捨て切ることができない。 頭でっかちそうなコラムニストですら、その傾向がある。 どっか「ファンとして見るオンナノコなあたし」を捨て切れない。
けどナンシーは違った。 彼女自身が語る「規格外のカラダ」をもって、ナンシーは常に対岸に居た。
対岸で仏のようにけわしく仏のように慈しみの心を持って。 すべての「踊りを踊る人々」を見ていた。 バカにするでもなく笑うでもなく、ただ見ていた。
見届けることを己の務めとした。
「ナンシーだったらこの局面をどう語るだろう」
そんなセリフがどれほどこの一年に語られたかを考える。 けどナンシーは、もう居ない。 そしてナンシーによって残されたのは、そんなセンチメンタリズムじゃないはずだ。 むしろ、
「ナンシー的な見方」
こそが、ありとあらゆるものを眺める時、最も役に立つということに。 気付かなくてはならない。
俺たちの目が曇るのは、てめえを勘定に入れるからだ。
オンナノコの居る店に飲みに行って独身ですと言わないのは、てめえを勘定に入れ無ェため。
それに限らず、てめえを勘定に入れた時点でいろんなもんが狂う。
ナンシーは偉大だった。 その「対岸性」において。
それは彼女が太っていたから?
そうじゃあない。
太っていることを容認できるほど「楽しい世界」を。 彼女が自分の中で自分の力でクリエイトたらしめていたからだ。
痩せてなきゃ楽しめない世界は寒そうだ。
ナンシーの居る茶の間は暖かそうだった。
安らかに。
テレビを含めた現場の人間には、ナンシーが「わからない」人も居たろうが。
身内びいきの視点の一切を蹴って業界を書くことを。 ライターは、やめてはいけない。
ライターはテレビのこっち側に居る。
テレビのこっち側に居て。
けわしく、やさしく。
庶民の肌をざわつかせるものを庶民のかわりに暴け。 そして書け。
さて今年もありがとう。
風邪ひくなよ。
来年もがんばろう。
「ちからいっぱいいきて、みちたりてしのうよ」と。
ハーロックのエンディングも歌っていたさ。
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