2001年11月17日(土) |
人間は死ねばただの肉塊。 |
日航ジャンボ機事故の検死記録が一冊の本になっている。 桜木は未読だが、読むと人生観が変わると言っている人が多い。
そこに書いてあることはつまり。
人間は死ねば皆ただの肉塊になる、ということなのだろう。 当たり前のことながら。 なかなか気づきにくい。 葬式に出ても。遺体は整えられて棺の中に収まっているから。 モノ、というカンジはあまりしない。 不幸にして鉄道自殺を目撃してしまった人なら。 モノ、というカンジがわかるかもしれないが。
日本という国は、ある時期をもって死体から国民の目をそむけさせることにしたので。
逆に死とか生きるとかいうことがわかりにくくなってしまったんじゃねーのかナ。 自殺者が何万人も出るようになってしまった。 リストラとか不景気の影響。それだけか?
本当にそれだけなんだろうか?
何も飛行機に乗ったままビルに激突するまでもなく。
いいかげんな交通事故でも肉塊になることはできる。
知り合いに検死担当の医師が居たが、彼が良く話してくれた交通事故の犠牲者の姿はすさまじいものだった。 一見優しい瞳の奥に、尋常でない輝きを秘めたその男は。
いわゆるひとつの地獄を知る目で。桜木に話してくれた。
ノーヘルで峠に突っ込んだバイクの事故現場。 頭が半分なくなって。 開いた口の中から、向こう側の景色が見えたそうだ。
思わずオエ、と言いたくなってしまうが。 いくらノーヘルで爆音をとどろかせて世間に迷惑をかけながら自爆して死んだのだといえ。ひとつの命には違いない。 人命だ。 とうとい命だ。
しかし。彼の話を聞いて出て来るのは、まず真っ先にウエエ、といった嗚咽である。
人があっさり人でなくモノになってしまう瞬間。 それは唐突に訪れる瞬間だ。
肉塊あるいは消し炭。 しかし。 その残酷な運命から完全に逃れることは、この地球上においては不可能なことだ。
死ねばそれ以上死ななくて済むというのは、そういうことだ。
尊厳を持って死ねるということが、どれほど素晴らしいか、という認識を。 死体を世間から遠ざけたものたちが、私たちの日常から奪い去ってしまった。
だから唐突に私たちは死体と邂逅するはめになる。 高速道路で車を飛び降りた少女の身体を、トラックがはねた。 虫の息だった少女は病院に運ばれたが亡くなった。 しかし何台もの車の中で。 何人ものドライバーが。
それが人なのかモノなのかということを。判断しかねていたのだ。
その境界はかくも曖昧なものなのだ。
震災でも。多くの日本人が理不尽な死に方を強いられ。 尊厳をふみにじられながら荼毘に付されていった。
そうして。そのような死は何も特別なものではなく。 いつなんどき自分たちに降りかかってくるかわからない。
ご遺体と呼ばれ。丁重に扱われ弔いを受けることができればまだ良いが。
人の手の足りない場所で突発的な事故にみまわれれば。 私たちは。 ただゆっくりと恐怖の中で、荒々しい自然にほふられて死んでいくしかないのだ。
今日もどこかで誰かが死んでいて。 それは自分ではない。 今さいわいにして自分は生きている。
しかし一つの死は一つの肉体を確実に滅ぼしていく。 死者一名とニュースが告げた時。 そこには滅び行く一つの肉体があるということなのだ。
死を思え。という言葉がある。
もしも明日この肉体が滅んでいるのだとしたら。 どんな今日であれば悔やまずにいられるのだろうと。
自分の心や他人の心を小説の題材かなにかのようにして楽しんでいるだけの人には。 ちょっと考えてみてもらいたいと思ったよ。
それにしてもどうしてこんなに不倫が流行っていやがるのかねェ。 明日あたり、そのへんのことでも、ちっと書いてみるかナ。
|