samahani
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英語を訳して日本語にしてしまうとニュアンスが異なるのは、まあ、あたり前と言えばあたり前であり、仕方のないことかもしれない。
例えば、 Jewish もしくは Jewish people と言えば、ニュートラルで 単に人種・民族を区別した言葉であると感じられるのに対し、ユダヤ人と言うと「ベニスの商人」に出てくる冷淡であくどい商売をする強欲な人たちというイメージが付きまとう。ただ、これは私がそう感じるだけで、夫に「そう思わない?」と聞いたときに、「全然思わない」と言われたから、英語力の問題(慣れ?)なのかもしれない。
Brian が、「ぼくは、Buddhist なんだよ」と言ったとき、でも、 Buddhist でも仏教徒ではないよなあなんて私は思った。私の中では、Brian = Buddhist だけど、Brian ≠ 仏教徒という感じなのだ。
きょう私は、Brian が、毎週通っているという座禅の道場(堂)に誘われて行ってみた。そこでは、毎月第一日曜日は初心者のための“Zen”が行なわれている。今日集まったのは、16人で、堂の側の人が3人と Brian 以外は皆 初心者だそうだ。アメリカのこの地に、仏教や座禅に興味を持つ人がこんなにたくさん居るとは驚きだ。
初めに、座禅のやり方や仏教の考え方などの説明があった。Gassyou (合掌)や Zabu (座布団?、お尻の下に敷いて膝下に体重がかからないようにするための小さなクッション)などの日本語の単語も聞こえてくる。「Syousin は大事です」と言うから、「傷心」を思い浮かべてしまったら、初心のことだった。ん〜、日本人が居たらやりにくいだろうなあなんてちょっと思った。
次に、実際に meditation (瞑想)をしてみた。頭に浮かぶ事柄を流れに任せて外に出していくとよい。そうすることで、清い気持ちになれるのだとか言っていたような気もするけど(はっきり言って、私の理解はめちゃくちゃ曖昧)、雑念ばかりがわいてきて、こんなことでいいのだろうかと思う。
とにかく9時半から始まって12時までの2時間半がとても長く感じられた。瞑想ならいっつも家で飽きるほどしている(笑)のに、なんで、いつもは遅寝している日曜の朝に早起きしてまで、また瞑想しないといけないかなあなんてことを考えていた。
そうは言っても、畳まではないけれど、仏像と線香の匂いと空気が揺れるのを感じられる鐘の音が、そこはかとなく郷愁をそそり、それはそれでなかなかよかった。できるなら、日本のどこかのお寺で本物の座禅を体験してみたいものだと思った。
もうひとつおもしろかったのは、「南無般若波羅蜜多・・・」が、漢字とローマ字と英語の訳で書かれている本(経典?)があり、おまじないのような呪文のようなそれにも、ちゃんと意味があったのだと知ったことだ。ちなみに最初の一文は、「私は私のまわりにあるすべての生物を守っていくことを誓う」というような内容だった。
最後に、「瞑想はこれで終わりです」と宣言があってから、茶道の茶器のような入れ物でお茶が出され、フリートークの時間になった。好みのお茶が4種類の中から選べるようになっているところが、アメリカっぽい。
漢字の掛け軸とか和風の置物などの東洋っぽいものは、インテリア・ショップなどでもよく見かけるのだけれど、どれもどこかがなんとなく違っている。きょうのフリートークで、こんな会話があった。 「面白いものを見た。Zen と書いてあるお菓子の袋があったんだよ 中味はプリッツェルとかで、全く Zen とは関係ないものが入っていて、どこが Zen なんだって感じなんだよ。でも、袋に竹の絵が描かれているの、だから Zen なんだね」「Zen って覚えやすいしね、ネーミングとしては、いいかもしれないね」
ほとんど何もしていない座禅道場での2時間半だったが、休みの日の早起きがたたったのか、午後はもの凄く眠くて、きょうは貴重な日曜日が丸一日潰れてしまったようなかんじだった。だから、来月の第一日曜日も座禅に行くかどうかは著しく微妙である。
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